竹島問題①
竹島領有は日本と大韓民国が抱える領土問題。日比谷公園程度の広さの小島が、日韓友好を進める際に常に障害となる。どちらに帰属するか。古文書などの時代はともかくとしてポイントとなる歴史的地点は主に2個所。1つは日本が竹島を「本邦所属」とした1905年1月28日の閣議決定だ。
【問題点①】1904年から05年の日韓関係
1904年8月 第一次日韓協約調印
1905年1月 日本が閣議で竹島を「本邦所属」と決定
1905年11月 第二次日韓協約調印。大韓帝国(韓国)は外交権を失う
日本が公然と大韓帝国(現在の韓国と北朝鮮を合わせた地域に存在した国家)の外交権を奪ったのは、同年11月17日の第二次日韓協約(韓国保護条約)によって。外交権が奪われれば、事実上大韓帝国(韓国)は「竹島は私のもの」という領有権を対外的に主張できなくなる。
外交(国同士のお付き合い)権は、財政(国のお金の集め方と使い方)と並んで独立国家に欠かせない権利だ。自分の稼ぎで生活(財政)できないと「独立した」とはいえない。同じく、「○○さんとは付き合っていい」「△△さんとは付き合ってはダメ」と指示されて、従わなければならないようでは独立とはいえない。この辺は個人も国家も同じである。
ただ竹島「本邦所属」決定から第二次日韓協約締結まで約10カ月あり、その間に大韓帝国は竹島の日本帰属が不満ならば表明できたはず、という主張はできよう。
さて当時の日韓関係および国際情勢で、「不満表明」は可能だったか。注目すべきは、すでに第一次日韓協約で韓国の外交権がかなり制約されていた点。その条文には
韓国政府ハ日本政府ノ推薦スル外国人一名ヲ外交顧問トシテ外部ニ傭聘シ、外交ニ関スル要務ハ総テ其意見ヲ詢ヒ施行スヘシ
とある。
上記の第一次協約で、すでに韓国は自由な国同士のお付き合い権=外交権を完全には持っていない。「総テ其意見ヲ」聞かなければならない「日本政府ノ推薦スル」「外交顧問」が保護者のようにいて、指図されるから。この「外交顧問」が日本人ならば、ズバリ「1904年段階で韓国は外交権を事実上失っていたのだから閣議決定にNOが言えるはずがない」となる。ところがこれは「外国人」だからやっかいである。
となると、その「外国人」とは具体的に誰かというと、アメリカ駐在日本公使館のスチーブンス顧問だった。アメリカが、日本の韓国に対する「優越的支配を承認」したのは1905年7月29日の「桂・タフト協定」だから、1904年段階で、日本はアメリカ(およびイギリス)の顔色をうかがったというのが定説である。
問題はこのスチーブンスという人物。多く親日家と伝わり、竹島領有について韓国側に立って日本へ抗議するような人物でなかったのは明らかだった。しかし、国籍はあくまでアメリカ人=日本人でない。もやもやが残る点だ。
ちなみに1905年は、「桂・タフト協定」以外にも8月12日の日英同盟改訂で、日本が韓国で「指導,監理及保護ノ措置」をとることをイギリスに承認させ、9月5日の日露戦争講和条約(ポーツマス条約)では「露西亜帝国政府ハ日本国カ韓国ニ於テ政事上、軍事上及経済上ノ卓絶ナル利益ヲ有スルコトヲ承認」させる。
すでに1895年の日清講和条約で「朝鮮国ノ完全無欠ナル独立自主ノ国タルコトヲ」清(中国)に確認させていた日本は、1905年で中国、アメリカ、イギリス、ロシアという主立った大国の了解(または黙認)を取り付けて、11月の第2次日韓協約締結へ進む。その過程にあったのが竹島領有の閣議決定だったのだ。
【問題点②】1945年から52年までの日韓関係
その後、1910年の韓国併合条約で日本が朝鮮半島を植民地化して35年後の1945年、日本はポツダム宣言を受諾して終戦、つまり連合国側に敗北した。その8項に
カイロ宣言ノ條項ハ履行セラルベク又日本國ノ主權ハ本州、北海道、九州及四國竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ
とある。竹島問題に関していえば2点が重要だ。
1つは「履行(実行)セラルベク」とされた「カイロ宣言」。ここには「朝鮮ヲ自由且独立ノモノタラシム」とある。つまり日本はポツダム宣言受諾とともに植民地である朝鮮半島を手放す約束をしたと解釈できよう。その後いろいろあった後の1948年に、朝鮮半島は南部に大韓民国(韓国)、北部に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が分立して建国する。
もう1つは「吾等(連合国)ノ決定スル諸小島」に竹島が含まれるか否か。それについて戦後の日本を事実上支配した連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、次のような行動をしている。
1945年9月 降伏文書に調印して連合国軍による占領統治始まる
1946年1月 GHQの覚書で竹島は「日本の範囲から除かれる地域」であるとされる。と同時に連合国の「最終的決定」ではないともした
1950年6月 朝鮮戦争勃発
9月 サンフランシスコ講和条約(サ条約)調印1952年1月 李承晩ライン(李ライン)の設定に伴い今日的な意味での竹島問題浮上
4月 サンフランシスコ講和条約発効。日本が独立を回復
通称「GHQ覚書」とは「メモ」といった軽い意味合いではない。当時の日本はGHQによる間接統治を事実上受けていたので、「覚書」といえども命令や法律に匹敵する強制力があった。ただ、ここがややこしいのだが、日本の占領政策は、組織の上ではGHQの上部にある主要連合国によって構成された最高機関「極東委員会」が決定する。よって、「GHQ覚書」は「連合国の『最終的決定』ではない」わけだ。
要するに、実際には法律に等しい効力がある「GHQ覚書」によって、日本の竹島領有権が「日本の範囲から除かれ」て、日本が独立を回復するまでこの覚書が別の覚書によって覆されなかったという事実がある。
では占領下、日本の日本海における漁業許可水域はどこかというと、通称「マッカーサー・ライン」で定められていた。その範囲に竹島は含まれない。ただし、これも「連合国の『最終的決定』ではない」。
さて独立回復となるサ条約に、竹島はどう位置づけられているか。同条約第2章「領域」に細かく書かれているのに、竹島の記載は明確ではない。それがなぜなのか、今なおさまざまな憶測や議論を呼んでいる。とはいえ明確でないのは事実だ。
この条約が発効(効力が発生する)すると、論理的には「GHQ覚書」や「マッカーサー・ライン」も無効となる。すると日本が領有権を主張する、竹島を含んだ漁業水域を主張する可能性が出てくる。その約3ヶ月前(つまり「GHQ覚書」「マッカーサー・ライン」が有効な時期)に、韓国の李承晩大統領が発したのが李ラインだ。それは韓国の日本海における主権を宣言した、具体的には資源保護および国防のためにもうけた海域で、そこに含まれる竹島の領有権も主張した。独立回復後の日本側は当然のように李ラインを不当と反論する。ここに竹島問題はハッキリした論争の対象となった。
あいまいな位置づけの「GHQ覚書」や「マッカーサー・ライン」の存在。サ条約での不記載。しかも同条約を結んだ会議に韓国は招待されていないとの事実。そして発効直前の李ライン設定。さらにいえばこの時点で日韓に国交はない……複雑な要素を抱えつつ、それでも日韓は話し合いを続けては決裂を続ける。その一応の決着が1965年の日韓基本条約締結だ。この点については次回。









