重大事件の時効廃止
参議院本会議は4月14日、殺人罪などの公訴時効を廃止したり延長する、刑事訴訟法と刑法の改正案を、与党民主党などに加えて野党の自民、公明の賛成も得て可決した。順調に行けば5月中にでも実施される予定である。
焦点は殺人の時効を廃止するかどうかであった。殺人罪は、刑法で最高刑を死刑とする最も重い罪の1つである。もちろんどの犯罪もいけない。しかし別して殺人が憎まれるのは、被害者が戻ってこないからだ。それは殺意を持たずに人を死なせた場合も同じで、改正案では殺人以外の「人を死なせた」罪の時効も倍とした。
悪意(殺意)を抱いて人を殺し(殺人)ておいて、時間が経てば刑事上の訴追(罪を問われて裁判にかけられる)さえされずに、のうのうと社会で生きられる。こうした「逃げ得」ともいえる制度がなぜあるのか。その理由はおおよそ次のようだった。
1)罪と罰のあり方の立場から
殺人の時効は、1908年から2005年までは15年、05年の法改正で25年となった。こうした長期間を逃亡するのは大変である。住民票は取れないし、取れたところでそこに戻るわけにもいかない。住民票がなければ就職もおぼつかない。全国に指名手配されれば顔と実名が知れ渡り、犯人は24時間心休まる時もない。といって海外へ逃亡すれば時効停止となる。そうした苦心惨憺は、罰を受けているのと同じ程度の負担を犯人にかける。
ということは、被害者(厳密にいえば被害者は亡くなっているので被害者遺族など)や社会も、罰を受けているのと同じ程度の苦しみを犯人に与えているわけで、その期間を過ぎたら罰する理由もなくなる。
2)法運営の立場から
1)にあるような逃亡により、被害者や社会が罰を与える理由がなくなるとの意見を異にする者も、現実問題として15年も25年も時が経つと、犯罪の物的証拠はもちろん目撃情報なども薄れていってしまう。有罪または無罪を証明してくれる人が亡くなってしまうケースもあろう。そうした段階で「犯人」を取り押さえたとしても、裁判にかけて有罪か無罪か、有罪の場合はどの程度の罰かを決める段取りが困難になる。無理やりをすれば冤罪(ぬれぎぬ)を生みかねない。
それでも時効廃止が現実化したのは、「逃げ得」を許すべきではないとの以前からの意見が根強いのに加えて、近年の科学捜査の進歩があげられる。地取り捜査や微物を鑑識が顕微鏡で鑑定するといった従来の捜査から、今ではDNA型の鑑定など長足の進歩が見られ、2)で紹介した証拠の散逸をある程度補えるようになった。
被害者が裁判に参加できる制度の発足など、被害者感情を重視する近年の傾向も見逃せない。そもそも1)にあげた根拠は法理論の問題であり、実際の被害者感情は「時効まで犯人も苦しんだから許してやるか」とはなかなかならない。
案外と見逃されているのが平均寿命の伸長であろう。終戦直後の1940年代後半頃まで、「人生50年」が平均だった。そのなかでの15年は確かに長い。逃亡犯にとってだけでなく、捜査員、被害者遺族、社会の構成員、証人のいずれにとってもだ。しかし今や男性・女性も70代後半から80代前半まで生きる時代である。そんななかでの15年は、以前のそれとは比較にならないものであろう。
というわけで殺人罪の時効廃止はおおむね好意的に取られているようだ。それでも最も心配なのはやはり冤罪の問題である。1990年に発生して、被告の有罪が確定した後に冤罪とわかった足利事件は、まさにDNA型鑑定を有力な材料と認めた上で発生した。この事件は、発生後1年あまりで菅家利和さんが殺人犯と断定された。それでも冤罪だった。
もし発生後30年、40年経って、いきなり「あなたが犯人です」と身柄を拘束されて裁判となった場合に、アリバイ(不在証明)を主張してくれる証人は生きているだろうか。生きていたとして、40年前のある日ある時の記憶が鮮明であると断言できるだろうか。
まして殺人の時効は25年へ延長されて5年程度である。2005年の殺人事件の逃亡犯がそれを迎えるのは、単純計算すると2030年である。改正の成果が明確になったと、現時点では言い難い。
(※参照:ニュース時事能力検定公式テキスト発展編118ページ~123ページ)









