EUの歴史
18世紀の産業革命以来、ヨーロッパ、とくにイギリスとフランスが世界を引っ張ってきた。両国の激しい競い合いに、1870年から71年の普仏戦争でフランスに勝って建国したドイツが加わり、利害衝突がたびたび起きた。それが1914年からの第一次世界大戦と1939年からの第二次世界大戦の大きな要因である。
拡大競争が、結局ヨーロッパ大陸を戦場とする大戦争を巻き起こし、自滅のような形でどの国も大被害を負って45年の終戦を迎えた。結果は東欧が旧ソ連の影響下に置かれ、西欧も米国のマーシャル・プランという援助計画に頼らざるを得なかった。世界の支配権はヨーロッパから米ソに移ってしまったのだ。
復活のきざしは英仏独の3強にはさまれたベルギー、ネーデルラント(日本名オランダ)、ルクセンブルクの3小国が、お互いの頭文字を並べて48年に結んだ「ベネルクス関税同盟」である。52年にはベネルクス3国にフランス、西ドイツ、イタリアを加えた6ヵ国による、ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)が設立され、鉄鋼の関税を廃するよう務めた。
関税とは、主に自国よりも安い商品が他国から輸入される際に、自国の生産者を守るべく課される税金である。したがって関税は自国民の保護、関税撤廃は外国との市場共有をさすと考えていい。これがEUの原風景である。
仏独が石炭と鉄鋼(というより原料の鉄鉱石)で協定を結んだ意義は大きかった。2度の世界大戦は両国の対立が主要な意味を持つが、その大きな原因が、国境付近にあるアルザス・ロレーヌ(ドイツ名エルザス・ロートリンゲン)地方の広大な鉄鉱床と炭田の奪い合いだったからで、普仏戦争以来の因縁でもあった。
ECSCを説いたフランスのシューマン外務大臣はアルザスの出身だった。ECSC6カ国は58年にヨーロッパ経済共同体(EEC)を設立し、経済の統合を全体に広げた。なおフランス人小説家ドーテの『最後の授業』は、普仏戦争でフランスがアルザスを失った際の、フランス人の思いを間接的に伝える作品として有名だが、小説なので当然とはいえ脚色があって論争に発展した。
ここまでの歩みで微妙だったのがイギリスの動きだ。イギリスにおけるヨーロッパとは、現在の日本が「アジア」という言葉に抱く感覚に近い。すなわち地理上の概念としてその地に属するのは疑いなくも、経済的・政治的には違う。日本人は平気で「アジアを旅する」と話す。地理上では自分の家の回りを歩いただけでアジアを旅したはずなのだが感覚として受け付けない。
イギリスも同じだった。第二次世界大戦終了後、いち早く「ヨーロッパ合衆国」を訴えたのは他ならぬチャーチル英首相だったにもかかわらず、実現性が出てくると敬遠し続けた。単なる違和感以外にも、かつての植民地諸国・地域との結びつきを重視する「イギリス連邦」の存在と、「アングロ・サクソン」という主要民族が一致する米国への親近感が存在した。さらに、今でこそ戦後を「米ソ二大超大国の時代」とみなすが、大戦で「戦勝国」の位置にあったイギリスは、自らを加えた「三大国(ビッグスリー)」の一員と自負もしていた。
したがってEECにも加わらず、イギリスとデンマーク、ノルウェー、スウェーデンの北欧諸国、永世中立国のスイスとオーストリアにポルトガルの7ヵ国で、ヨーロッパ自由貿易連合(EFTA)を60年に発足させた。しかし関税同盟や労働力の自由な移動など国家の枠組みを超えた試みをしているEECより、ずっとゆるやかな自由貿易の地域帯にとどまった。
もともと「世界の工場」すなわち輸出大国こそ、イギリスが「大英帝国」として君臨できた原動力である。しかしEEC内での人、モノ、カネのやりとりの方が効率的であるため、イギリスからの輸入は減少した。しかも同様にゆるやかだったイギリス連邦加盟国も、イギリス本国への輸出入よりも有利な相手国との貿易を伸ばすようになった。親近感を示す米国との経済格差は年を追って開くばかりと、八方ふさがりに陥る。
たまりかねてイギリスは63年と68年の2回、EEC加入を申し入れたが、二度ともド・ゴール仏大統領に拒絶された。1度目はイギリスが米国との関係を欧州より重視していると、2度目はIMF(国際通貨基金)からの借り入れをしなければならぬほど行き詰まっていたイギリスが加入しても、何の役にも立たないとの理由だった。ただ背後にド・ゴール個人の強烈な英米嫌いがあったであろう。
これに先立つ67年にはECSC、EECとEURATOM(ヨーロッパ原子力共同体)の3機関を統合するEC(ヨーロッパ共同体)発足がうたわれ、関税、通商産業など幅広い分野での一体をめざすとなった。73年にようやくイギリスのEC加盟が認められる。フランスからド・ゴールが去り、広くヨーロッパ主義を掲げるポンピドーが大統領に就任していたのが大きかった。EFTAのメンバーだったデンマーク、ノルウェー、ポルトガルも後に加わり、92年のEU発足までに、アイルランド、スペイン、ギリシャもふくめた12カ国体制となった。
EC時代までは、軍事的には米国主導で49年に結成された北大西洋条約機構(NATO)、経済的には終戦直後のマーシャル・プランなど、「ソ連&東ヨーロッパ」に対抗する西ヨーロッパの団結という色彩が強かった。これが91年のソ連崩壊を決定打とする冷戦終了で、EUの視界が東に注がれるようになる。95年、オーストリアとスウェーデン、さらにフィンランドがEFTAを脱退、EUへの加盟により15カ国体制になった後に04年、東ヨーロッパ圏への拡大となる。
1999年からは単一通貨「ユーロ」を導入し、ドルを追う基軸通貨となりつつある。
だが政治・外交、軍事にまで至る完全統合は道半ばだ。ユーロでさえイギリスが使用していない。三権分立の「行政」に当たる委員会の委員は国代表。「立法」機関の議会は人口比だが、国ごとの上下限があるため「1票の格差」がある。また各国代表で構成する理事会にも立法権があり、EUは現在2つの立法府が混在している。「司法」のうち最高裁判所に当たる司法裁判所裁判官は「5大国」の5人と、それ以外からの3人と、国連安全保障理事会に似た「それ以外」にとっては差別的な縛りもある。
さらに各国の最高権力者(大統領や首相)に委員会委員長を加えた首脳会議に、事実上の決定権があるのは明らかで、現在「わが町」「わが家」が委員会、議会、理事会、首脳会議で未整理のままだ。









