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台湾で政権交代

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●「2つの中国」の歴史

2016年1月、台湾(中華民国)で総統(元首)と立法院(国会)の選挙があり、野党の民主進歩党(民進党)が与党の国民党をいずれも破り、政権交代を果たしました。新総統に選ばれたのが蔡英文民進党主席です。
台湾は国家機能をそろえているものの現在、正式に国交を結んでいるのは20カ国程度で「地域」として紹介される場合が多いです。それには歴史的背景があります。
中華民国は1911年の辛亥革命で誕生し、直後に清朝皇帝が退位したため中国の正式な政権となりました。革命の父である孫文が創設したのが国民党です。日中戦争から第二次世界大戦まで日本と戦った主な相手で蒋介石が指導していました。
1945年、日本がポツダム宣言を受諾して終戦となります。同宣言には日本が支配していた台湾を中華民国に返還するとしたカイロ宣言を「履行セラルヘク」とあり、そうした方向に進みました。
ところが戦後、中国では毛沢東率いる共産党と国民党で内戦となり、敗れた蒋介石が台湾へと逃げ込みます。勝った毛沢東は1949年に中華人民共和国を建国します。ここから「2つの中国」問題が発生しました。
歴史上の経緯から戦後誕生した国際連合の常任理事国は中華民国でした。しかし台頭する中華人民共和国の存在を国際社会が次第に無視できなくなり1971年に常任理事国の座が入れ替わりました。不服として中華民国は国連を脱退します。「1つの中国」を掲げる中華人民共和国と国交を結んだ日本などは中華民国と断交せざるを得なくなりました。
蒋介石と国民党が台湾に逃げ込んできたのが1949年。その前年に、つまりまだ大陸にある段階で初の総統選挙が行われ、蒋が初代総統になりました。孫文の思想で作られた国民大会代表による間接選挙です。

●一党独裁の中で野党結成

台湾時代の蒋は戒厳令を敷き事実上の国民党一党独裁となります。元々台湾に住んでいた「本省人」を蒋ら国民党による「外省人」が抑え込む形となりました。この態勢は息子の蒋経国に至るまで続きます。形式的な選挙は行われました。ただそれを担う国民大会の代表は既に中国大陸を離れているので改選できず、同じメンバーが国民党の意向に沿う総統を選び続けるという非民主的態勢が継続します。
こうしたあり方に本省人は強い不満を抱いていました。そこで民主化勢力が1986年に結成したのが民進党です。最初は非合法でしたが経国総統の黙認があって選挙へ参加し始めました。
もう一つの民主化勢力は国民党内で台頭していました。1990年に選出された李登輝総統の改革です。94年に直接選挙の導入を決め、自ら96年の初の総統直接選挙に勝ちます。この時から総統の任期も「6年・無制限」から「1期4年・連続2期」という現在の制度へと改められました。
中国共産党と国民党は宿敵です。とはいえ歴史上の経緯から台湾が国民党独裁であり続けるのは現状維持でもありました。李氏の改革は中国となった異なる複数政党制での選挙導入でもあり「台湾は独立するつもりか」と一時両岸(中国と台湾)関係が著しく緊張しました。それでも戦火を交えるに至らなかったのは「1つの中国」を原則とする「92年コンセンサス」が密かに合意されていたのが寄与したとみられます。
2000年の総統選は国民党の有力者が分裂選挙に突入したお陰もあって、民進党の陳水扁候補が当選。初の政権交代となりました。ただ立法院での過半数は果たせませんでした。
陳政権は日本の民主党が2009年に政権を獲得したのと似ていて、初の運営で度重なるミスを犯し政権担当能力を疑問視されていました。それでも2期目は投票前日に銃撃されるという事件が同情票に変わったのも助けられてわずかな差で勝利しました。しかし親族や自身のスキャンダルが次々に浮上するなど迷走が続き、退任後に逮捕・起訴されてしまいました。

●国民党政権は中国寄り

2008年の総統選は国民党の馬英九候補が勝って8年振りに政権を奪還しました。経済政策において中国と近しい関係を作っていこうという方向性で2期務めました。この中国との接近が市民への不満につながっていきます。貧富の差が拡大し、14年に結ぼうとした中国との自由化協定が学生などを中心に激しい批判にさらされ、立法院が占拠されるという事態にまで至りました。経済発展から取り残された人や不景気の到来に至る者、さらに分断から65年も経って旧来の「本省人」「外省人」の対立を超えた、いわば「ネイティブ台湾」の若者らから幅広い支持を集めたのが蔡氏で、8年振り2度目の政権交代を実現させたのです。最大課題の対中関係は「現状維持」と、親中派も反中派もある程度乗れる表現としたのも、経済界を安心させる効果があったようです。

※記事の内容は執筆者個人の見解であり、早稲田塾の公式見解ではありません。