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GOOD PROFESSOR

明治学院大学
経済学部

神門 善久 教授

ごうど・よしひさ
1962年生まれ。京都大学農学研究科農林経済学博士後期課程中退。京都大学博士(農学)。滋賀県立短期大学助手、明治学院大学助教授などを経て、現職。専攻は開発経済学、農業経済学。著書に『日本の食と農』(NTT出版、サントリー学芸賞)、『さよならニッポン農業』(日本放送出版協会)、 『日本農業への正しい絶望法』(新潮社)、共著に『農業経済論・新版』(岩波書店)

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正門脇の芝生は明学らしさが感じられる場所
明治学院大学の正門

日本全国から足で集めた基礎データと取材例を発信し続ける

――今回紹介するのは、「自称・野良犬」の破天荒な農業経済学の教授だ。毎週末のように農村に出向いては、家畜や作物を観察する。関係者が決して口にしない問題点をずばずばと言い当て、マスコミや学界の農業論議の虚構をあばく。

経済学者でありながら、経済学に対する固執はない。農地や畜舎で何が起きているかを率直に見つめる。国内各地に懇意にしている農家があり、北は北海道紋別から、南は九州を通り越し父島母島まで、定点観測する。

取材は国内にとどまらない。アジアのノーベル賞・マグサイサイ賞を受賞した農学者モンコンブ・スワミナサン博士(システマティックな開発農業研究で受賞後、伝統農法へ回帰)に初対面で意気投合し、そのままスワミナサン博士の案内で2日かけて南ベトナムで、アポなしの農家訪問を続けたのは、その一例にすぎない。

神門教授は、こう書いている。

「日本農業がどんどん下手になっている。工業製品のように規格化されていないので気づきにくいのかもしれないが農産物の品質低下も深刻だ」

ところが、日本人の多くは、「農業は成長産業」という政府やマスコミの報道を鵜呑みにしている。

「リーマン・ショックや、中国はじめ新興国の台頭など、日本の商工業の凋落が誰の目にもあきらかになった麻生政権(2008年9月〜2009年9月)あたりから日本農業を賛美する報道が流行りだした。『何か日本に誇れる産業があってほしい』という現状逃避的な願望が日本社会に充満し、そのはけ口として日本農業へのほめそやしにつながっている」

「農業ブームのおかげで、見かけ倒しの農業が増えた。耕作の技能をみがくよりも、広告や宣伝が上手になった方がオカネになるという傾向がある。おかげで、土作りがでたらめなのに、有機栽培とかお題目ばかり立派になる傾向がある」

――先生は、今の農業ブームを「コピーにすぎない」とおっしゃっています。

たとえば、「過疎と高齢化に泣く町が、農林業の特産品を都会に売り出してよみがえった」という町に行ったことがありますが、都会で同世代の高齢者が経済的にも社会的にも困っているのに比べて、最初から、何に「泣く」のか判然としないところでした。その町は、もともと広葉樹林のはずなのに、モヤシのように異常に細くて長さがそろった杉の木で山が覆われていました。五十年前の材木ブームのときに木をすべて伐採し、しっかりお金儲けをして、そのお金があるから子供たちを大阪や東京に送り出しました。その後、先々に材木として高く売ることをあてこんで杉の木を植え、労賃が高くなったので山の管理を怠り、荒れ放題にしました。その町は「日本の原風景」と棚田の写真で広告をしていますが、その棚田の周りも異常な杉林です。ごく一部に残った広葉樹を使ったビジネスに視察が殺到するそうですが、大面積をしめている異様な杉林には目がいかないようです。いまの日本人はすっかり自然を感じる力を失っていて、マスコミ報道や広告に盲従するのですね。同じ高齢者でも、本当に困っているのは都市で寂しくアパートを借りて住んでいる高齢者たちのほうでしょう。しかしそういう人たちをとりあげると、都市住民も身近な困窮者に支援活動をするべきだというプレッシャーがかかることになります。そういう話題は嫌だから、農村の高齢者に目を向けたがっているとも言えます。

農業に関する夢のような成功事例がさかんに称賛されますが、実態は、虚構であるということはよくあります。でも、そういう事実を指摘すると、逆に非難されたり、無視されかねません。国内での発信はどんどん難しくなります。リアルな農業の現状を知ることを消費者は実は嫌っているのではないでしょうか。地産地消を言いながら、農業機械がうるさいとか、家畜が臭うとか、農薬をまくなとか、屠畜場を建てるなとか、農地からの砂埃が迷惑だと、苦情を言う。

デンマークの養豚農家を訪問する神門先生(左)
視察で訪れた北朝鮮の農村風景

農業を論じる際に重要な「芯」と「皮」

――どのように「農業」を研究しているかを、高校生に向けて説明してくださいますか。

僕は学生には「農業を論じるときには果物にたとえて『芯』と『皮』をわかっていなければならない」とよく言います。

「芯」は、動植物の生理です。農業の主人公はあくまでも動植物であって人間ではありません。それに農業者というのは、そのままを言ってくれない人もいます。農業にかかわる者なら、作物や家畜の生育状況を見て、何が起きているかがわからなくてはいけません。もちろん知識も必要ですが、動植物とコミュニケーションできることが必要です。

もう1つの「皮」というのは、非農業のことです。

農業は基本的に縮小産業で、非農業によって浸食され、振り回される産業です。人類の農耕の歴史は今から2万年前に始まったといわれています。そのときは、農業が唯一の産業であり、GDPの100%が農業といえます。それが商工業などの発達によって、日本ではGDPの1%程度まで低下しています。農業で使われていた水や土や労働力が非農業へと移っていきます。非農業で開発された機材や技術が、どんどん農業に入ってきます。非農業の事情で、農産物への要求も変わります。フィルムのポジとネガの関係で、ポジ(農業)だけ見ていたんじゃだめで、ネガ(他の産業)を見てこそ見えてくるという特徴があります。そういう意味では、農業は社会を映す鏡と言ってよいでしょう。

ベトナムに調査に行ったときにも、都市を一生懸命見ました。今、ベトナムでは農民が都市に憧れて出ていっているわけです。いったい都市のどこに彼らが憧れるのだろうということが理解できていなければいけないわけです。

日本の場合、土地が農業から非農業へと移っていきます。農地を商工業向けに転用して大金を手にする農家がたくさんいます。農地の転用というと都市近郊のことだと思い込んでいる人も多いようですが、農村でも、農業生産に適した優良農地ほど、商工業施設や住宅の好適地で、びっくりするような価格で買収されます。

――明治学院大学のホームページでは、神門教授の専門は「農業経済学」となっていますが、「経済学における一般法則を農業に適用する」というものですか。

それは違いますね。農業の現実を表現するのに経済学の用語を使っているだけです。経済学はあくまでも型にすぎません。

いけばなで、最初にいけ方の基本型をしっかり仕込まれて、ある程度わかったらそれを壊しますよね。型を学ぶことは大切ですが、型に振り回されては本末転倒です。

東日本大震災で、科学を振り回すことの危険性を見せつけられたはずです。原子力工学は自然科学で、経済学は社会科学という分野の違いがありますが、科学者の傲慢がきわめて有害であることには違いがありません。

――経済学で現実が説明できると考えるのは傲慢なんですか。

科学ですべてがわかると考えてはいけません。ダーウィンの進化論にも間違いがあることが、わかってきました。経済学の標準的な理論も時につれて変化してきました。いま、経済学者の間で主流の理論が、ほんとうに正しいのかどうかはわかりません。

『日本の食と農』(NTT出版、2006年)で
サントリー学芸賞と日経BP BizTech賞を同時受賞
「経済学とは何なのか」を考える参考書として

『日本の食と農』を書いて広がった人脈

今は、北は北海道の紋別、南は九州を通り越して父島母島まで、懇意にしている農家があります。農家以外でも、庭師、鍼灸師、宗教家、相場師など、奇妙な人脈を持っていて、それが農業の研究にも実に役立ちます。そして、その人脈は、僕が『日本の食と農』を2006年に出版してからのこの8年弱でできました。

――皆、教授の本の読者ですか。

僕の本を読んだ農家さんから「来てほしい」っていう話が来るようになって、で、行って農地や畜舎を見て、話を聞いて、そうすると、また「お友達でこういうことをやっている人がいて……」というように、行った先行った先で紹介されて、気がついたら、北から南まで知り合いができました。読者の中で熱心に私にアクセスしてくれた人たちの中には、食肉の貿易商や、世界的な穀物業者の重役もいます。彼らのコネで、農業視察に行くこともあります。

台湾とシンガポールから月に1回程度、日本の農業事情を紹介する英語の小論文を書いています。英語での発信にも力を入れていて、これも海外の研究者の目にとまって、彼らとの交流が始まることがあります。僕の著作は3冊、中国語訳版が中国で出版されています。

僕の郷里である島根の農業も研究対象です。とくにお袋の実家のある島根県斐川町の農業は研究しがいがあります。集落規範が強く残存し、斐川町を先行事例とみなして2014年度に農水省が農地中間管理機構(別名:農地バンク)という制度を立ち上げました。もっとも、斐川町の特殊性を理解しないまま、農水省がつまみ食い的に模倣するものだから、農地中間管理機構はトンチンカンになってしまっていますけれど。

その斐川町の集落規範も、急速に崩壊しつつあります。その崩壊過程を記録しておかないといけないなと思っていたところに、デュースブルク=エッセン大学のハノさんという大学院生が僕のところにやって来ました。彼が日本の農村社会の変容を研究しているというので、4ヵ月間、斐川町に住み込んで調査をするよう、あっせんしました。

こんな学生に来てほしい

大学にいるときに、虚心坦懐(さっぱりとして率直な心で)に人間社会を見つめてほしいです。

脳科学の研究によると、人間は見ているものをありのままに見ているのではなく、つねにこれまでの経験によって変形して見ているのだそうです。つまり、見るポイントを絞ってそれ以外の情報は視覚にあっても無意味化すると同時に、見えていないことを想像で補って認識しているのだそうです。同じ光景を見ても、人によって気づきが違うのも、そのためです。

先入観のない人間はいないし、いちいち物事の本質的な意味を考えていると社会的な生活ができなくなります。たとえば、なぜ福沢諭吉の絵の紙が野口英世の絵の紙よりも10倍価値があるのか、ということの意味を真剣に考えだしてしまえば、何もものを買ったり売ったりできなくなります。でも、そういう思考は人生の意味を真剣に考えることでもあります。

虚心坦懐に徹するというのは難しいことではあるけれども、大学生時代でないとなかなかできないことでしょう。


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※掲載されている教授の所属・役職などは取材当時のものであり、現時点の情報とは異なっている場合があります。