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GOOD PROFESSOR

日本女子大学
人間社会学部 現代社会学科

成田 龍一 教授

なりた・りゅういち

大阪府出身。1951年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、早稲田大学大学院文学研究科博士後期過程修了。横浜市立大学講師、東京外国語大学講師、助教授を経て、日本女子大学教授。専攻は近現代日本史。著書に『「故郷」という物語 都市空間の歴史学』(吉川弘文館)、『<歴史>はいかに語られるか』『司馬遼太郎の幕末・明治』(朝日選書)、『大正デモクラシー』(岩波新書)、『戦後思想家としての司馬遼太郎』(筑摩書房)、『戦後日本史の学び方・考え方—歴史ってなんだろう?』(河出書房新社・14歳の世渡り術シリーズ)ほか

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授業風景
人間社会学部・西生田キャンパスの正門(川崎市)

歴史とは時代時代の人の解釈だ

――今回紹介するのは日本女子大学人間社会学部の成田龍一教授。「歴史とは単純な事実の積み重ねではない。人が解釈した事実によって織りなされたものです。だから隣り合う国の歴史記述もまた、同じ事実をめぐってまったく異なる」といい切って、私たちの毎日とは関係なく思える「歴史」を、うんと身近に語っている。

授業では映画を題材に、映画製作者の解釈、その映画を見た同時代人の解釈、そして現代の解釈を分析。授業をとった後、自分の周りの出来事にもそこで学んだ分析の眼を向ける学生も多いという。成田教授は次のように語る。

「歴史とは、単純な事実の積み重ねではなく、人間の解釈によって織りなされた『事実』の重なりあったものである」というのが僕の考えの出発点です。つまり「歴史は事実」ではなくて、「歴史は事実をめぐる解釈だ」ということが基本になっています。

じゃあどんな解釈でも可能かと言ったら、そうではなくて、解釈の幅はある。言えることと、言えないことがある、ということですね。その解釈の幅をめぐって議論していくのが、歴史学という学問である。これが僕の立場です。

現実、身の回りにも「事実」はたくさんあります。でも、立場によって、それぞれの人によって「事実」の内容は異なりますね。ここから、歴史の場合においても「これが唯一の歴史的事実である」と本当に言うことができるのだろうかという疑問が生まれます。そこをさらに進め、「歴史とは、事実というより『解釈』としてみるべきではないか?」と考えるわけです。

一例をあげてみましょう。戦前の皇国史観は、天皇を軸に「事実」を考えてきました。しかし、それが敗戦をきっかけに「うそだった」、と言い、歴史をめぐる考え方、解釈が変わりました。戦後の歴史学は、皇国史観に反対しています。このことは、よくわかります。しかし、この戦後の歴史学の考え方も変わる可能性がある。再び「間違いだった。実は…」ということも起こりうるわけですよね。

となると、歴史学が扱うのは、事実でなく「事実に対する解釈だ」と考えるべきだというのが、僕の考え方、結論です。歴史のなかに生きている人にとっての「事実」と、あとの時代から見たときの「事実」は、同じ出来事であっても、意味や内容が異なっているはずです。それは、「事実」の「解釈」が異なっているということになるでしょう。でもこういうことを言うと、「それは相対主義だ。どんな考え方も許容するのか」と言われます。

こういう意見に対して言いたいことは2つです。

1つめは「いま皆が思っている歴史も解釈の1つだ」ということ。2つめは、でも、「どんな解釈も可能ではない」ということ。

思いつきのように語られる「解釈」がある。無理やりな解釈があります。それに対し、「そんな解釈は通用しません。その解釈は無理です」というのが歴史学です。納得しがたい解釈には、歴史学としてぶつかっていくことになります。

緑があふれているキャンパス
先生編集の高校教科書。大判見開きで図版や
データの説明として歴史が流れる

現代を生きる上で「使ってもらえる歴史」を

――歴史学が現代に果たす役割について教えてください。

戦後、歴史学は、使命感も実行力もある学問でした。しかし、いまは……。
現在の日本は、グローバリゼーションのただなかにあります。「いま、ここ」と目の前だけを重視して、この瞬間のみに関心を有する社会のしくみになっています。こうしたなかでは、歴史や歴史学は、まだるっこしいものである、という考え方を持つ人たちがだんだん増えてきています。

またグローバリゼーションは効率優先で、デジタル化を伴い、ものごとを全部フラットにして考えるのが特徴です。フラットな世界で人が幸せなら、それもいいでしょう。でもそうではない。みんな一生懸命善意でやっているはずなのに、個性や違う見方が発揮できない息苦しい社会になっています。

個人の差を無視して、皆が一律の幸せを追い求めれば、社会が息苦しくなっていくということですね。そのしくみやからくりを考えるときに、歴史学は役立つはずです。 歴史学は、過去に目を向けながら、現実を学ぶ学問です。だからちょっと見ただけでは見えにくい現実に、実は凸凹や遠近、強弱があることを知ることができるのです。長い時間の射程、過去を鏡とすれば、「いま、ここ」が決してフラットではないことが見えてきます。

グローバリゼーションの時代の歴史学は「社会史」とよばれています。「社会史」は、時代の必要に応えようと、いままでと少し別の角度から歴史を考えています。人間の「心と体」をもとにして、人間の感情、人間の体を出発点に考えてみようとしているのです。

そう、これまでと歴史学の役割が変わってきているのです。いままでの歴史学が念頭においていた、近代の国民国家という単位の考え方では、いまの学生はあまり納得してくれません。それは学生が悪いのではなく、社会、世界が変わったのです。僕は「歴史学は、変わらないとダメだ」と考えています。

出版社で実施した模擬授業が元になっている書籍。
7月に文庫版『戦後史入門』(河出文庫)発売

「時代解釈の素材」として映画を使う

――先生の授業で、映画を使うとお聞きしていますが……。

僕の授業ではテキストも使いますが、とにかく映画をいっぱい見てもらいます。映画史を学ぶのではなく、時代の解釈を映す素材として映画を使っています。

ゼミ演習では、テーマを出して学生に映画を持ち寄ってもらう。そして、「なぜこの映画を選択したか」、この映画でどういう解釈がされているか、について報告してもらいます。そのときには、同時代的な解釈として、公開時の映画評も必ず読みます。それに対する現在の自分たちの解釈を、ステップを重ねながら議論していく。1年の半分ほどは文献学習ですが、後期になるとほとんど映画漬け。映画をずっと見続けます。

映画表現は、表現の幅にふくらみがあり、たくさんの情報が含まれています。見る人に解釈を委ねる場合もある。同じ映画を繰り返し見続けて、最終的に自分の解釈を見つけ、評価する判断基準は自分にあることを学びます。すると、社会に接したときにも「これは、いまをこういうふうに解釈しているんだ」ということが見えてくる。応用ができるんですね。事実に対する、幾段階もの解釈を、実践することが可能になるのです。

こんな学生に来てほしい

いま研究室は4年生が10人、3年生が13人。院生が5人。女子大は就職率がいいので一般就職が多いのですが、教員や出版社、放送局のアナウンサーになった人もいます。

ゼミで生き生きしているのは、いろんなものに興味や関心がある学生。そして、自らの解釈を、議論のなかで作りあげていく学生です。ひとつの文献、一本の映画をめぐって、多様な解釈が可能であることを学びます。自分の解釈が、他の解釈とぶつかり合い、より練り上げられた解釈となっていくのですね。こうしたゼミでの学習を経て、学生たちは、当たり前にみえるもののなかにこそ、問題が潜んでいるという考え方を持つようにもなっていきます。

女性だけですので、お互いに役割分担のようなものができて、ゼミに限らずどんな集団でもうまく機能しています。リーダーシップを発揮する学生たちの仕切り方、さばき方、まとめ方は本当に見事ですよ。


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※掲載されている教授の所属・役職などは取材当時のものであり、現時点の情報とは異なっている場合があります。