
東京大学
総合研究博物館
遠藤 秀紀教授

著名な伊藤忠太氏のデザイン

動物の死体から進化を読み解く「遺体科学」
――今回紹介する遠藤秀紀教授は遺体科学者だ。恩賜上野動物園で飼育されていたジャイアントパンダの遺体を解剖したことでも知られている。その仕事は、動物の死体を解剖し観察してその進化のなぞを解き明かすこと。いわば、死体から動物進化の歴史を読み解く学問といえよう。従来は「解剖学」と呼ばれていた分野に新たな光をあて、「遺体科学」という新体系を創設しつつある。まずは、その真意から聞いていこう。
地球上にはさまざまな体の形をもった動物が生きています。その形になぜ進化してきたのか、その形には一体どのような機能があるのかを比較形態学・進化生物学などの視点から研究しています。そのためには元々の形を知ることが必要で、死体を解剖することによって、骨などの形から類推していきます。つまり歴史書をひも解くように、動物の体からその歴史を読み解く仕事ともいえます。
ところが解剖学という日本語は、残念ながら、死体研究の科学を指すのではなく、医療系実学職業教育のカリキュラムを指すために使われている場合が圧倒的に多いのが現状です。わたしが研究しているのはそれとは真逆で、解剖によって自然科学の真理探究の場をつくろうとする学問なのです。それを明示するために、あえて自分の学問を「遺体科学」と呼ぶこととしました。
この遺体科学では、どんな動物のどのような死体も知の宝庫だと信じ、目の前の屍が秘めている謎に学者としての全能力を懸けて挑戦します。自然界の歴史の謎に進化の論理で挑戦すると言ってもいいでしょう。真実を把握するにはたくさんの証拠が必要です。動物の進化の仕組みを知るには、比較照合して明らかにするしかありませんから、骨や化石・剥製などさまざまな資料を広く収集して蓄積し、それぞれ研究に使っています。また未来の教育と研究のためにきちんと保存して残すことも重要な仕事となります。
――遠藤先生の動物への興味は、小さな子どものころからあったのだろうか。
小さいころから動物が好きでした。「好き」には「Love」と「Be interested」の2種類がありますが、その両方の意味で好きでした。小学校低学年のときに縁日で買って可愛がっていた金魚が死んでしまいました。わたしは悲しむより前に、なぜ死んだのかを知るためにハサミで解剖した記憶があります。子どもが魚を解剖しても何もわかるはずもありませんが、お墓をつくって悼むだけでは満足できなかったのです。このように、わたしの中で生き物に対する「Love」と「Be interested」は両立しています。あらゆる動物の歴史を片っ端から知りたいと思っています。

内にある

自然界への「知の証拠づけ」としての博物館
――遠藤先生の研究室(遺体科学研究室)は東京大学本郷キャンパスの総合研究博物館内にある。大学における博物館の意義についても聞いてみた。
欧米には各国の王族やパトロンが集めた膨大な蒐集数を誇る博物館がたくさんあります。それらは自然界に対する人類による「知の証拠づけ」ともいうべきもの。残念ながら日本には、そうした概念が根づいていません。アメリカのスミソニアン研究所は、質も量も世界一のすばらしい博物館群ですが、安全保障への支出を優先し行政改革のためにスミソニアン博物館を縮小しようとする動きがあったそうです。ですが、スミソニアン博物館には気骨があったんですねえ。「国防とは、価値のある国を守るために存在する。だが、スミソニアン博物館のないアメリカなど、軍事力をもって守る価値はない」などと主張。世論を巻き込んで反対し、縮小の機運を抑えたそうですよ。
わたしも同感です。真理を探究することで文化を創造する、先の話でいうなら、守るに足る社会や国家をつくる――それこそが科学の仕事であり責任です。そのためにも、この博物館は日本における自然史学・博物学の再構築をめざし、未来へ引き継ぐための拠点でもあるのです。
――遺体科学研究室はまだ新しい研究室だ。その研究テーマは多岐にわたっているが、「脊椎動物のかたち」を共通のキーワードに、おもに脊椎動物の形態学的研究を手がけている。もちろん遠藤先生は大学院生の論文指導もやる。インタビュー中も、遠藤教授が話しているすぐ側で学生たちが活発なディスカッションをしていて、のびやかな研究室の雰囲気が感じられてくる。
わたしが20歳くらいのころ、大学時代の恩師である林良博先生(現・国立科学博物館館長)がこうおっしゃいました。「わたしの能力では、遠藤君の好奇心のすべてに応えてあげることはとても出来ない。だけど遠藤君のしたいことの邪魔はしないから、わたしの研究室に好き勝手にいて良いですよ」と。そのことばが嬉しくありがたかった。だから、わたしもずっと学生たちに同じことを言いつづけています。


エッセー本『東大夢教授』
全人類で自分だけが知っているという恐ろしさ
――遠藤先生には専門分野をテーマとする専門書も多いが、そのほかに学者としての日常の想いをつづったエッセー『東大夢教授』などの著書もある。そのなかでは解剖をしているときに動物の死体と心のなかで交わす「会話」や新たな発見など、遺体科学者としての喜びがいきいきと描かれている。
この本に書いてあることはほぼドキュメンタリーで、解剖をしているときに心のなかで動物死体と会話をしているのも日常のことです。解剖では五感をフルに使ってやるため、そういう会話が成立するのだと思います。新たな発見があったときは目で見るよりも先に指先でわかります。彫刻家が石の断面に指をはわせ、自分の求めていた曲面を感じ取るような場面に近いかもしれません。いまは分析機器が発達して、機械に命令を出すのが研究者の仕事だと言われがちですが、もともと科学は五感を使って調べるのが当たり前。たとえば今では少数派でしょうが、昔気質の地質学の研究者には土をなめて発見のスタートを切る人もいました。
ジャイアントパンダの7本目の指を発見したときも指先の触覚ではっきりとそれとわかりました。そのとき感じたのは喜びよりも恐ろしさ。真理に対する畏怖です。だって、その瞬間に世界中でそのことを知っているのは自分だけなのです。全人類が知らないことを自分だけが知っている――その恐ろしさといったら……。でも、それこそが遺体科学の醍醐味ともいえます。
――遠藤先生は「遺体科学は、ただの発見に終わらず、学者の自己表現と人間社会との対話に至る」とも語る。ただ解剖して分析するだけでなく、「哲学」が不可欠であるという力強い信念。それらはどこから生まれてくるのか。
小学校10歳くらいのときの授業でのことが原体験です。わたしが通っていたのはキリスト教系の小学校でした。ある先生が授業で「天地創造」の絵本とダーウィンの進化論の本をもってきて、「どちらの本が言っていることが正しいか」について議論させたのです。クリスチャンの多い学校だったので「天地創造」派も多かったのですが、わたしはもちろん「進化論」派で、こてんぱんに同級生をやっつけた覚えがあるんです。
その様子をじっと見ていた先生は、最後にわたしを呼んでこう言ったんです。「遠藤君は人一倍勉強しているし、なにより(科学が)好きだからよく知っている。遠藤君の言っていることは何より正しい」と。わたしは得意になって喜んだのですが、先生はこう続けたんです。「でも世の中には、この絵本にすがらないと生きていけない人が何億人もいる。わたしもその一人だ。そのことをわかってくれたら、遠藤君は科学の道に進んでいい。自分が信じる“真実”を確かめるために科学の道に進みなさい」。そのことばには、信仰に限ったことではなくて、その後の人生のあらゆる場面での、人と人とが認め合うことの大切さを教えられたと思っています。
わたしは特撮SF作品・映画が好きでして、いまもよく読み、また観ます。かつてのSF映画には必ずといっていいほど、テクノロジーの進歩と人間存在の間で悩む科学者が登場しました。その姿にこそ共感したのだと思います。いまでも自分を円谷英二さん映像作品の科学者の姿にふつうにダブらせて生きています。しかし近年のSF映画は浅く、そういう自問する人物が出て来ないのが残念で仕方がありません。SF文学・映画を通じて人類の業を問うこと自体が過去の時代に忘れ去られたようで、寂しい限りです。
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