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横浜校レポート

受験生必見! おすすめブックNAVI最終回!

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みなさんこんにちは!
横浜校担任助手の山下帆乃香(関東学院六浦高校卒・早稲田塾第38期生・上智大学法学部法律学科2年)です。


わたし、山下が「おもしろい!」「役に立つ!」「受験生・高校生のみんなにぜひ読んでもらいたい!」と感じたおすすめの本を紹介する、この「受験生必見! おすすめブックNAVI」


11回目となる今回が最終回です!


約1年間のご愛読、本当にありがとうございました。


はじめましての方は、ぜひ
第1回(http://www.wasedajuku.com/school/wasedane/yokohama/detail.php?itemid=12171)、
第2回(http://www.wasedajuku.com/school/wasedane/yokohama/detail.php?itemid=12317)、
第3回(http://www.wasedajuku.com/school/wasedane/yokohama/detail.php?itemid=12498)、
第4回(http://www.wasedajuku.com/school/wasedane/yokohama/detail.php?itemid=12651)、
第5回(http://www.wasedajuku.com/school/wasedane/yokohama/detail.php?itemid=12786)、
第6回(http://www.wasedajuku.com/school/wasedane/yokohama/detail.php?itemid=12919)、
第7回(http://www.wasedajuku.com/school/wasedane/yokohama/detail.php?itemid=13057)、
第8回(http://www.wasedajuku.com/school/wasedane/yokohama/detail.php?itemid=13213)、
第9回(http://www.wasedajuku.com/school/wasedane/yokohama/detail.php?itemid=13352)、
第10回(http://www.wasedajuku.com/school/wasedane/yokohama/detail.php?itemid=13468)


の方にも目を通してみてくださいね!

 

さて、最後に紹介する1冊はこちら!

 

鷲田清一先生著『死なないでいる理由』(小学館、2002年5月10日第1刷発行、1700円+税)です!

 

「生きることの意味、老いることの意味、じぶんがここにいることの意味、そういうかつては哲学的といわれた問いを多くのひとが抱え込んでいるのが現代です。答えが出てこないかもしれない問いですが、そういう問いとかかわらないと生きてゆけないのが、わたしたち現代人なのです。(「妙に哲学的な時代」より)」


ここにいること、生きつづけていることに、理由が必要になりました。ただ生きる、ということを、わたし達現代人はもはやできません。


「どうしてわたしはここにいるのだろう?」ということを、考えたことのない人はみなさんの中にほとんどいないと思います。「わたしはいるよりいない方がいい」という思いを完全に否定できたことのある人も、案外少ないのではないでしょうか。


「ただ訳もなく生きているという感情しか生きるということにたいして抱けない、そういう寂しさがひとりひとりの存在に滲みだしているような。だからだろう、だれかに、あるいは何かに微かな隙間さえもなく密着しているのでないと、じぶんの存在がふと消えてしまうような切迫した想いを、ひとの表情に、あるいはふるまいに感じることがある。そしてそんなに『寂しい』のに、なぜ、それでもなおひとは死なないできたのか? そういう問いが頭をもたげる。(まえがきより)」

 

現代を生きるわたしたちの命について、「所有」「幸福論」「医療」「教育」「都市」果ては「ファッション」まで、さまざまな視点から論じた1冊です。


弱さ、寂しさ、壊れやすさを抱えた現代人への、鷲田先生の深いまなざしが文章のひとつひとつに溢れています。

 

ここでは、とくに幸福論について紹介します。


幸福論は、20世紀に入ってその語りの長い伝統がぷっつり断ち切れ、思想の歴史においてほとんど姿を消してしまいました。西洋ではギリシャ以来、幸福論がいつも道徳論の基本にありました。幸福とは「よい生活」のことであり、その「よさ」について考えること、そして「よい生活」を得るためにはひとはどのようにふるまったらよいかを考えることが、道徳論の基本にありました。そのためアリストテレスにおいてもカントやJ・S・ミルにおいても、それぞれ倫理学説としての主張は異にしても、幸福論というものを外して倫理というものは考えられませんでした。それが20世紀に入ると、幸福になるための実用書は巷にあふれても、そして不幸論や苦悩論はあっても、幸福についての思想というものはぱたりと姿を消してしまいます。


歌人であり演劇家であった寺山修司は、トーマス・マンの「政治を軽蔑するものは、軽蔑に価する政治しか持つことが出来ない」というアフォリズムを引いて、これは幸福にもあてはまるとし、こう述べました。「幸福の相場を下落させているのは、幸福自身ではなく、むしろ幸福ということばを軽蔑している私たち自身にほかならない」。そして「私たちの時代に失われてしまっているのは『幸福』ではなくて、『幸福論』である」、と。

 

どうして20世紀という時代に、幸福論は退場したのでしょう。


「従来の幸福論は歴史的理性とべつの地平をわかち、そのために『歴史に欠席していた』と言えるだろう」。これも寺山修司の言葉です。だが、と彼は言います。「だが、歴史の進歩を擁護するために、幸福を否定するのは、あまりにも理性的に過ぎるというものである。歴史問題からおさらばしてしまったあとでも幸福への欲求は残るが、幸福への欲求を失ったあとで、歴史を語るのは何と空々しいことだろう」。そういう空々しさは、幸福論のそれでもあります。そして幸福論の空々しさは、彼に言わせれば、これまでの幸福論がまさに「歴史に欠席していた」ところに原因があります。


幸福論が困難なのは、社会のなかでじぶんの場所がうまく確定しえないからかもしれない、と鷲田先生は述べます。歴史のなかでそれぞれの幸福を描く、そのための社会的な想像力が萎んでいるからかもしれない、と。


アリストテレスの時代には「持ち分」がありました。ベンサムやミルの時代には「全体の幸福」への視圏がありました。現代の幸福のイメージは私的なことがらに閉じこもり、「歴史に欠席して」います。H・アレントは『人間の条件』(1985年)で、私生活、つまりはprivacyを「他人によって見られ聴かれることから生じるリアリティを奪われていること(deprived)」としてとらえました。プライヴァシーに欠けているのは他者である、と。そしてそういう「孤独」(loneliness)が、現代の大衆社会において「もっとも極端で、もっとも反人間的な形式をとっている」といいます。


「孤独」、それはオルテガ・イ・ガセーが時代の危機について述べたその述語を借りれば、方位喪失(disorientation)ということです。世界という織物、社会という織物のなかに産み落とされたはずの個々の人間が、家族や地域、学校や職場、あるいはそれ以外のさまざまな中間集団、そのいずれのうちにあっても、じぶんの立つその場所を生の足場として確定できずに、それぞれがいってみればその神経を被いもなくむきだしにしたまま、あるいは引きこもるべき奥行きをももたないまま、孤立的に、社会的なるもののうちを方位なく漂流しているような生の構図です。社会の遠近法が消失し、それへの可能な回路が見えないという状況は、それこそ波のように、歴史のなかでくりかえし生じてきたことですが、それがいま「もっとも反人間的な形式」をとるにいたっていると、アレントは判断したのでした。歴史の負荷を外されて、個々人による「幸福の追求」の条件が多様になったとおもわれたときに、ひとは社会的なもののうちで虚しく浮遊するじぶんを見出しました。無重力の世界、そのなかで、ひとはじぶんの存在に意味がほんとうにあるのか、別にこのわたしでなくてもいいのでは……という、なにか見棄てられた感情にとらえられます。そしてじぶんがだれであるかを、過剰なまでに問いつめます。同時代、D・リースマンが「孤独な群衆」とよんだ寂しい(lonely)光景です。そのような光景のなかで、ひとはじぶんの現在の困難が過去のある深い外傷に負うと、これまた孤立的に了解しなおします。あるいは、「だれかとつながっていたい」と、同じように寂しい他者の声を求めます。あるいは、ひとりでは何もできない、いやそもそも何をしたいのかさえじぶんでもわからない、といった底深い無能力の感情にとらえられます。


「孤独な群衆」を誕生させることになった近代社会にあっては、そのため、〈幸福〉と〈幸運〉はこのうえもなく近接してきます。幸福への道筋が見えないのだから、幸福がじぶんの存在にとって偶有的なめぐりあわせとしてしか意識されようがなくなるからです。


いつごろからか、幸福な気分に包まれたとき、わたしたちは「ラッキー」と言うようになりました。その姿に、幸福もえらく軽くなったものだと、戦中派のひとなどは嘆かわしく思っているかもしれません。


「幸福」と「幸運」、「ハッピー」と「ラッキー」。この2つの外来語は、もとをたどればほとんど異ならない意味を持つようですが、わたしたちにとってはかなりニュアンスを異にするものになっています。「グッド・ラック」はたまたま運がよければ訪れるものであるのにたいして、幸福というのはじぶんが努力してたぐり寄せるものというイメージが強いです。それは、「人生設計」という言葉もあるように、じぶんの存在はじぶんでデザインするものだという近代の思想と深く関わっているようにおもわれます。そのためには勤勉でなければならぬ、各人が自立した強い存在でなければならぬ、そしてそういうひとだけが幸福に近づける……。近代社会というのは怠惰と弱さがネガティブにとらえられる社会のことです。


他方、運というのは、ひとがみずからの意志ではどうにもできないことであり、また因果法則のような定まったかたちでは生じないもの、そのため理由も存在しないし予測も不可能なことをいいます。宇宙の始まりや行く末についてまずそれは言えるのでしょうが、それとともにこの〈わたし〉の存在というものにも深くまとわりつくものです。たとえばわたしが女性であり、特定の時代に、特定の場所で、あるふたりの人間の出会いの結果として生まれたことも、別様にもありえたという意味ではそこに必然はなく、偶然です。〈わたし〉の存在にはなにか必然的な理由や根拠があるわけではない……そういう〈わたし〉の存在の底のなさを埋めるのは、大変なこと、不可能なことです。が、それを埋めることをひとは必死で考え続けてきました。「ただ生きる」ということができなくて、生きながら、その生きることの意味を考えないではいられない。すべては偶然であり運しだいであるということに耐えきれず、「よい」運と「悪い」運を考えるのも、意味というものに拘泥するからです。


偶然の出来事を意味の糸で縫うことへの衝迫というのは、個人にも社会にもみられるものです。「アイデンティティとは、自分が自分に語って聞かせるストーリーだ」と言ったのは、(反)精神科医のR・D・レインですが、その意味ではわたしが〈わたし〉であるためには、そしてそのわたしの幸福というものを見定めるためにも、物語が必要であるのです。そしてそこに、必然の糸がたぐり寄せられます。偶然としてあったあの、たとえば女性であること、この時代の日本という国に生まれたこと、この家族のもとに生まれたこと……、これらが、女性だから、日本人だから、こんな家の子だからじぶんはこうなんだという理屈に変わってしまう。すると、物語は知らぬまに、じぶんを見つめることを避ける恰好の手段に反転してしまいます。
社会の歴史についても同様のことが言えます。進歩史観も唯物史観も、「世俗化された終末論」にほかならないと指摘したのは、R・ブルトマンです。

では、「ハッピー」を「ラッキー」と表現するわたしたちは、幸福はみずから手に入れなければならないという、そういう強迫観念から、そしてそのための脅迫的な物語から、はたして解放されつつあるのでしょうか。それとも逆に、「ハッピー」のイメージがかつてよりはるかに「軽い」ものになったと言うべきなのでしょうか。わたしたちは、少しいいことがあるとすぐに「しあわせ!」と言います。じぶんのこの小さな幸福には、歴史も社会も関係ない、と言わんばかりに。幸福がグッズのように、とても小さく軽く、なにやらうら悲しいほどにあかるくなっているような印象がたしかにあります。


「従来の幸福論は歴史的理性とべつの地平をわかち、そのために『歴史に欠席していた』と言えるだろう」。幸福の思想が、あるいはイメージが、「歴史」、つまりは他者たちとの共同生活の来し方行く末につながらないで、「わたし」ひとりの小さな幸福をしか思い描けなくなった。それは、人間が幸福になるために作った生産装置や社会組織がひとりの人間の想像力を越えてはたらきだすようになって、ひとはもはやじぶんの生活のあるべき姿ですらじぶんひとりのイマジネーションではまとめ上げることができなくなったからではないか、と鷲田先生は主張します。そのため、ハッピーはラッキーになる、と。


「わたしたちがはまりこんでいる危機の第一の相貌は、要するに、現代の思想が道徳的な掟に、冒しがたい基礎を提供することができないという点にある」とは、G・バタイユの、すでに身にしみすぎてだれもが完了形でしか意識できなくなっているような言葉でありますが、〈倫理〉という約束がなりたつためには、「よき生活」への共同の意思がなくてはなりません。しかし、そのためには「生きる」ということがまず肯定されていなければなりません。生きる理由がないときにでも、それでも死なずに、生きている、生きつづけるのはどうしてか。生きる理由がどうしても見当たらなくなったときに、じぶんが生きるにあたいする者であることをじぶんに納得させるのは、思いのほかむずかしいです。そのとき、死への恐れははたらいても、倫理ははたらきません。生きるということが楽しいものであることの幸福な経験、そういう人生への肯定が底にないと、死なないでいることをひとは肯定できないものです。そういう生の肯定はしかし、浮遊する孤立的な生のなかでは不可能です。


「いいんだよ、おまえはそのままで」


じぶんがこのままで他者によって肯定されることに渇くひとびと、そういう他者による(条件つきのではない)肯定、そういう他者による〈存在〉の贈与に、ひとは焦がれだしているのでしょう。「この」わたしの存在のかけがえのなさを、時間系列での因果的必然(つまり、リニアな同一性)のほうから考えるのではなく、いいかえるとわたしにとっての〈わたし〉ではなく、他者に召喚される〈わたし〉あるいは他者の宛先としての〈わたし〉というかたちで、考えようとしているのでしょう。


「幸福」が「運」という《偶然》に重なり合ってきています。


『偶然性の問題』の九鬼周造は、その《偶然》には3つの性質があると書いています。①何かあることもないこともできるようなもの、②何かと何かが遇うこと、それも遇うことも遇わないこともありうるような遇い方で、③何か稀にしかないこと。《必然》というのは、九鬼によれば「反対の不可能なこと」、いいかえると、自己のうちにその存在の理由をもっており、あたえられた自己があたえられたままの自己を保持することであって、したがってそれは自己同一のかたちをとります。それにたいして《偶然》は、その逆、必然性の否定ですから、あるものが自己のうちにその存在の十分な根拠を有していないこと(無根拠)、つまりは自己同一がなりたたないことを意味することになります。そして「定め」とは、そういう偶然があるひとの生存によって決定的な意味をもつとき、偶然がそのひとにおいて内面化されたときに生じます。


「遇ふて空しく過ぐるなかれ」。九鬼周造はその著『偶発性の問題』をこのような言葉で閉じていますが、そのとき九鬼は、おそらく、彼の短歌のなかの言葉でいえば、「いのちのはずみ」というものを思い浮かべていたのでしょう。「はずみ」とは、もののはずみという偶然であるとともに、運動が双方向に跳ねるということです。ここでは、偶然が必然に、必然が偶然に。偶然が必然にというのは、九鬼の言う「定め」としての偶然の内面化でもあるし、じぶんの存在を必然性の糸で縫い上げること、仮構することでもあります。他方、必然を偶然にというのは、わたしが〈わたし〉として生まれたよりももっと遠いところ、「そこではまだ可能が可能のままであったところ」へとじぶんを送り届ける、つまりは〈わたし〉を存在としてほどいてしまうということです。つまり自己同一への強迫から下りるということでもあります。九鬼の場合、それは他なるものとの「出逢い」のなかに賭けるということでもありました。最後のこの2つが、〈幸福〉を巡る2つの声に折り重なってくる。そう鷲田先生は述べます。


その声とは、寺山修司が『幸福論』で引いている2つの声です。
「明日何が起るか、今日のうちにわかってしまったら、明日まで生きているたのしみが半減してしまう」という声。他方に、「ひとりで幸福になろうとしても、それは無理よ」という声。寺山が引いている反対向きの声が、どちらも耳に痛く響きます。

 

幸福論というかたちで「死なないでいる理由」にたどり着くには、まだまだ道は遠い、という一文で、語りは閉じられています。

 

 

 

わたしたちが生きている時代は、奇妙なほど哲学的なむずかしさをたたえています。


そういう時代に大事なのは、「わからないことを、わかることで歪めてしまわないこと」だと鷲田先生は本書のなかでつよく主張なさっています。歪めることでわかりやすいストーリーをつくっても、そのストーリーはすぐに破綻する、と。


哲学は学校で習いますが、哲学の思考は学校の思考とは正反対なのだといいます。とりわけ受験勉強は正反対です。入学試験ではまず、どの問いが解けて、どれが解けないかを判断します。しかし、生きていくうえで大事なのは、その逆のことです。大事なのは、わからないが無視できない、どうしても避けることのできない問題に直面したときに、これとどう格闘してくぐり抜けるかなのです。


「見えているのにだれも見ていないことを、見えるようにする。言葉で見えるようにする。これが哲学の仕事だと思います。(「妙に哲学的な時代」より)」


しかしわたしたちは、先に述べた学校だけでなく、あらゆる場面において、これと反対のことをして暮らしています。食生活を考えてみても、スーパーマーケットでは、命あるものを殺したことが見えないように工夫されています。肉はサイコロ状にしてあったり、薄く切ってバラの花のように、芸術品のようにしてあったりします。魚は切り身や短冊の刺身にして、もとの姿が思い浮かばないような姿で売られています。野菜や果物も、サイズのそろったものだけを入荷して、透明なフィルムでラップされています。また、ひとが生まれるとはどういうことかということも、かつての日本人は家庭で体験していました。どんなに大きな苦痛な声を上げるか、どんなに血まみれになるか。病むことにしても、どれほどしんどいことであるのか。さらには、死ぬとはどういうことか。わたしは見たことがありませんが、体の孔という孔から体液が出てきて、皮膚の色が急速に変化するそうです。かつては、たいていのひとが各家庭で死を迎え、家族がからだを清めていました。いまのわたしたちのなかに、出産のシーンやひとの死後のからだの変化のありさまをじかに見られた方は少ないのではないでしょうか。誕生した子供にはじめて対面するときにしても、すでに看護師さんが身体をきれいに拭って産着を着せています。亡くなったわたしの父も、すべすべの肌をして、きちんとした姿勢を棺のなかでとってから出てきたのを覚えています。このように一種のラップ・フィルムをかけられた状態でしか、人間の誕生も、病むことも、死ぬことも、体験できなくなっているのです。


そうしてわたしたちから遠ざけられた「生きる」ことに関する強烈な手触り、そこに宿る哲学的な考え方を、言語的に表現するのが哲学の役目なのだといいます。

 

生きていると、しんどい、と感じることが多くあります。


「生きていていい理由」の不在、将来の見通しが立たない不安と、それと奇妙に同居する「わたしの人生たかがしれている」という諦観、「もう自分は若くない」と思うこともあれば、「いつまでも大人になれない」という渇きに襲われることもある。「これからどこへ行けばいいのだろう」と思うし、同時に「どこにだって行けない」とも感じる。


そのような苦しさから目を背けると、一時は救われたような気になります。楽しいことだけをやる、みんなが正しいと言っていることをやる。逃げられるものなら一生逃げ続けていたい、とつい思ってしまいます。


けれども、そのような生き方はしばらくすると確実に立ちゆかなくなってしまいます。そのため、少しずつでも、自分や自分の生きる世界と、自分の心を使って向き合っていくことが必要になります。


鷲田先生は、本書において、「答え」を出しません。「あなたが死なないでいる理由はこうだ」「命とは、人生とはこういうものだ」ということを、少しも仰いません。たくさんのトピックを通して、ただ、わたしたちに、自分で考えるようにとそっと促すだけです。

 

わたしたちがこれからの人生において向き合っていく問いたちは、とても難しく、一生を費やしてさえ答えが出るか分からないものです。そういうものをひとりで考えるのは、ときにとても大変です。


もし考えることに行き詰まってしまったときには、ぜひわたしたち早稲田塾のスタッフ・担任助手に相談してください。考えたこと、考えてみたいこと、悩んでいること、分からないこと、なんでもかまいません。
みなさんがいま抱えている「もやもや」がみなさんにとって少しでもよいものになるように、全力で伴走していきます。

 

 

 

今月は、〈わたし〉の根っこを見つめるきっかけをくれる『死なないでいる理由』を紹介しました!

ぜひお手にとってみてください!

 

 

 

今回で、この「受験生必見! おすすめブックNAVI」がみなさんにお会いできるのは最後になります。


これまでおつきあいくださり、本当にありがとうございました。


約1年間、「どんな本を紹介しよう?」「どんなことを伝えたいだろう?」と、本を通してみなさんと向き合ってきました。


閉塞感や無力感、焦燥や倦怠、ことばにならない「もやもや」や「むずむず」を抱えているひとの、なにかほんの些細でも、変化のきっかけになれていたらいいなと思います。


わたしは今月紹介した本の中で検討されている、「生きる意味」「死なないでいる理由」「自分が自分である意味」などといった大切な問いの答えを、まだひとつも見つけられていません。毎日たいてい何かについて思い悩んでいるし、間違ったことも頻繁にしてしまいます。


そんなわたしが、今までの人生を通してみなさんに伝えられる唯一のことは、それでもわたしたちのそばにはなにかしらがいる、ということです。どうしようもないときに、本に命を救われてきました。だれも信じられないと思ったときに、思いがけないひとに助けてもらいました。


わたしたちは絶対的な孤独を抱えています。それはわたしたちがわたしたち自身でいる限りどうしようもないことで、それでもその孤独がひどく耐えがたいときもあると思います。


そんなときにはぜひ、本を読んでみてください。てきとうに本屋さんをぶらりとして選ぶのでもいいし、ご家族などの本棚をのぞいてみるのもすてきだと思います。そうして、少し心が回復したら、今度はそばにいる誰かに声をかけてみてください。

 

みなさんのこれからが幸せなものになることを、心から願っています。


それでは、またお会いしましょう!

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投稿者:
山下 帆乃香