09年の交通事故死者数が5000人を割り込む
2010年1月、警察庁が発表した09年の交通事故死者数が4000人台と、下降したことがわかった。5000人を割ったのは1952年以来で、正確には4914人である。
乗用車の普及は、同時に交通事故激増の歴史でもあった。刑法211条の「業務上過失致死傷」は、刑法に定められた時点では文字通り「業務上」だった。列車の運転士など、「業務上」以外が想定できなかったからである。戦後、徐々に乗用車などが普及してくると「業務上」の解釈も問題となる。1951年の最高裁判例では「業務とは各人が社会生活上の地位に基き継続して行う事務」一般とした。58年の同判例は、51年判例に加えて「行為者の目的がこれによつて収入を得るにあるとその他の欲望を充たすにあるとは問わない」と踏み込んだ。この間の、54年から死者数が6000人台を超え、59年からは1万人を毎年突破する状況となった。
50年代ごろまでの自動車免許は、今の基準でいえば冗談のように簡単に取得でき、二輪に至っては排気量制限がない(限定解除)まま、何でも乗ってよかった。世に「ポツダム免許」と俗称される。
しかし69年に死者数が1万6千人以上を数え、70年に過去最悪の1万6765人を記録するに及んで、「交通戦争」の趣を示し始める。死者数の急増期は経済の高度成長期と一致しており、公害問題と並んで経済成長の負の遺産といえよう。
この70年には、国会で交通安全対策基本法が制定され、「交通安全基本計画」が5年ごとに目標を掲げて実施されるようになった。当時非常に多かった歩行中の事故死者をまず減らすことから始め、「交通安全」運動が展開されたのも手伝い、翌年から減少傾向に転じ、76年には死者1万人を、翌年には9000人を下回った。しかし82年からは再び9000人台に乗り、88年からは1万人を上回り始めた。ちょうどバブル景気のさなかであり、景気との関連がここでもうかがわれる。
相次ぐ規制の強化や免許制度の改革によって、死者数は96年から1万人を、2001年から9000人を、03年からは8000人を、05年からは7000人をそれぞれ下回る成果をあげて、今回の4000人台にまでたどり着く。つまり死者数だけで見れば、21世紀に入って激減してはいるのだ。
交通事故死者数の原因はさまざまある。そのうち「飲酒」に関しては、日本には伝統的に甘い風土があった。61年制定の「酒に酔って公衆に迷惑をかける行為の防止等に関する法律」(酩酊防止法)は、1条に「過度の飲酒が個人的及び社会的に及ぼす害悪を防止」を「目的」とし、2条で「すべて国民は、飲酒を強要する等の悪習を排除し、飲酒についての節度を保つように努めなければならない」と命じている。
だが、本来こうした当たり前の行為を、「節度ある飲酒」と、法で規定しなければならないこと自体が情けない話なのだ。大きな契機となったのが1999年11月、東京都世田谷区の東名高速道路で、両親と幼い姉妹が乗った乗用車に飲酒運転のトラックが追突、姉妹が焼死した事故である。運転手は業務上過失致死傷罪などの罪で起訴されて懲役4年が確定。起きた結果に対して罰が軽すぎるとの叫びが01年12月の刑法改正につながり、「危険運転致死傷罪」が同法208条の2 に追加された。「アルコール又は薬物の影響により正常な運転が困難な状態で四輪以上の自動車を走行させ、よって、人を負傷させた者」を対象とし、現時点で最高20年の懲役を科すことができる。
悲惨な事故ではあったけれど、それをきっかけに飲酒運転追放などの撲滅キャンペーンが行われる世相とは、とりも直さず近年の死亡交通事故に対する「許さない」気風を反映しているともいえる。
少なくとも1980年代までは、「要普免」として従業員を募集した企業や団体のかなりが、飲酒運転を黙認ないしはそうせざるを得ない勤務体系や社風を持っていた。もはや許されないと引き締めるしかない。
07年5月には刑法が改正されて、これまで自動車事故に多く当てはめられてきた刑法211条「業務上過失致死傷」に2項へ「自動車運転過失致死傷罪」が新設された。「業務上」だと、時には最高刑5年だった懲役若しくは禁錮刑が7年に引き上げられるなど、厳罰化した。
ただ見逃せないのは負傷者数だ。「交通戦争」ピークの1970年でさえ10万人を割っていたが、99年から2006年まで超えている。発生件数も1970年以上のままだ。油断ならぬ状態は続いている。
社会の注目を集める事故は、しばしば幼子の無残な死である場合が多いが、子を持つ保護者の死もまた、遺族や遺児に大きな負担を残す。「交通戦争」中の1969年に、財団法人交通遺児育英会は遺児の高校進学を助成する目的で設立された。民事裁判で加害者の賠償責任が確定しても、加害者自身が払いきれないなど問題は山積している。









