- 小林 忠 教授
- 学習院大学
文学部 哲学科 小林 忠教授(こばやし・ただし)
1941年、東京生まれ。68年、東京大学大学院人文科学研究科美術史学専攻修士課程修了。67年に東京国立博物館に入り、77年には名古屋大学助教授に就任。84年より学習院大学文学部教授。83年には、サントリー学芸賞を受賞している。主な著作に、『江戸絵画史論』、『墨絵の譜』など多数。
研究の始まりは母の手まり歌
小林忠先生が鈴木春信の浮世絵に魅せられたのは、少し因縁めいている。
今から36年前、先生は卒論のテーマとして春信を選んだ。写楽や北斎、広重、歌麿などと比べれば知名度こそ見劣りするものの、春信の美意識が先生の心を離さなかったからだ。
「子どものころ母から教わった手まり歌に、笠森稲荷のお仙さんを主人公にしたものがありましてね。強く記憶に残っていたのです。そのお仙さんこそ、じつは春信がよく描いていた人物でした」
現在の日暮里と鶯谷の間ぐらいに位置した笠森稲荷の茶屋で、お仙さんは看板娘として働いていた。200年以上前の美人が歌い継がれているのもすごい話だが、歌で見知った人物に絵で心を奪われたのも不思議な縁である。
「いまだに春信には深い思い入れがあります。その始まりは母の手まり歌かもしれませんね」と、小林先生は穏やかな口調で話してくれた。
小林先生ほど直接的ではないにせよ、先生の講義を通して、日本美術との見えないつながりを感じる学生は少なくないという。
「畳のない家なども多くなり、日本人の生活スタイルは大きく変わりました。しかし日本人として共有するセンチメントは、遺伝されているのかもしれませんね。日本美術を学ぶことで、そういったことに目覚める学生も多くいますから」
高校でも日本美術を学ぶことはほとんどない。展覧会なども洋画ほど開催されない。それだけにDNAに眠る日本人の美意識は、意識されることも少ないだろう。しかし日本の芸術を生みだした素養は、今もって残っている、と先生は考えている。
「日本のマンガは、世界に発信する数少ない日本カルチャーの一つですよね。じつは昔から日本人は、本当に絵が好きでした。特にストーリーと絵が平行して進む方式を、こよなく愛してきたのです。江戸時代にさかのぼれば、黄表紙は絵入りですよね。さらにさかのぼれば、絵巻物もそう」
美術品が伝える過去の息吹
こうした「共有センチメント」に加えて、先生の講義には学生をひきつけて止まないもう一つの魅力がある。それは美術史という学問の面白さだ。
かつて美術史は天才芸術家の業績が学問の中心にあった。しかし近年の美術史は、天才芸術家に描かせた社会状況や鑑賞者まで含め、大きな広がりの中で芸術を解釈していくのだという。
「美術品には、作られた社会的背景や切実な理由があります。だからこそ美術品を通してその時代の夢や救いを感じ、美術を鏡のようにして失われた過去の社会や人間を考えられるのです。作った人も鑑賞した人々も、私たちと同じように数百年前の世界を生きていたわけですから」
もちろん美術品を解釈すれば、違った見方も出てくる。例えば、踊っている女性を描いた舞踊図屏風などは、男性が所有したい女性を描いたと解される。その一方で、当時の女性が憧れた身振りやファッションを描いたと考える専門家もいる。正反対の解釈である。
しかし先生は、そうした様々な見方が生まれたことを評価している。
「舞踊図屏風については、まだ仮説の段階です。しかし、色々な意見がでることで、その絵が多面的に浮かび上がってきます。いろんな解釈を加えることで、単なる美人画が生き生きとした時代の代弁者となるのです」
もちろん勝手に美術を解釈すればいいというものではない。文献を調べ、根拠も探らなければならない。だが過去の息吹を感じ始めると、多くの学生は夢中になって勉強を始める。
高等科から乗馬部に所属。大学時代も3年まで乗馬一色の生活を送ってきたある学生は、「馬が好きなのだから、厩図屏風をやってみたら」という先生の一言で変わった。描かれた馬のしぐさから厩図屏風に迫り、卒論で優を取るところまで熱中した。
「学生との接点をうまく見つけてやれば、スーッと伸びていきます。それは教師としての醍醐味ですね」と、先生は語る。個々人の興味が学問への情熱につながりやすいことも、美術史の特徴だろう。
最後に春信の因縁について、もう少し書き加えておきたい。 春信の因縁は、来年違った形で花開く。千葉市美術館と山口県立萩美術館に勤める2人の教え子が、先生の還暦を祝い、春信の展覧会を開くのである。2人の卒業生とも卒論は春信。そう先生と同じだ。
母親から口授されたお仙の美しさは、小林先生を通して教え子にも伝えられたことになる。
「いや、本当は今年が還暦なのですが、二つの美術館の予定もあって、来年開催になったのですよ」
そう語る小林先生の嬉しそうな顔が、とても印象に残った。
こんな生徒に来てほしい
「まじめな学生に来てほしいですね。遊ぶことにも、勉強することにもまじめな学生ですね。何でも積極的にトライしてほしい。夢中になってやっていれば、本人もどんどん楽しくなってきますから。やはり燃えない学生が、いちばん手に負えないかもしれませんね」













