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Good Professor

塩川 伸明

塩川 伸明 教授
東京大学
大学院 法学政治学研究科

塩川 伸明(しおかわ・のぶあき)教授
1948年東京生まれ。74年東京大学教養学部教養学科卒。79年同大学院社会学研究科国際関係論専門課程博士課程単位取得退学。79年東京大学社会科学研究所助手。82年同大学法学部助教授。92年より現職。
主な著作に『現存した社会主義』『《20世紀史》を考える』(ともに勁草書房)『民族と言語―多民族国家ソ連の興亡Ⅰ』(岩波書店)などがある。

目の前で見たソ連崩壊の生々しさ

塩川研究室のある弥生キャンパス総合研究棟
塩川研究室のある弥生キャンパス総合研究棟

1991年8月。塩川伸明東京大学教授はソビエト連邦の首都モスクワにいた。目の前を戦車が地響きをたてながら驀進し、武装した兵士が物々しく警備する一方、これに抵抗する勢力は路上にバリケードを作りはじめる。70年以上続いたソ連が解体するきっかけとなるクーデターが発生したのだ。塩川先生は歴史の大きな転換点に居合わせ、その現場を目の当たりにすることになった。

「歴史の研究をしていますと、長いスケールでものを考えますから、昨日今日起こるような事柄に振り回されることは、普通はありません。ただ、このクーデターをクライマックスとするソ連時代最末期(ゴルバチョフ時代のいわゆるペレストロイカ)だけは例外でした。目の前で歴史が動いたんですからね。『こんなこともあるのだ』と数年間は興奮状態が続きました」

塩川先生は当時をそう振り返る。それまで歴史家としてソ連の成立過程や体制確立過程の研究をしていた先生だが、その体験をきっかけにして、ペレストロイカからソ連解体に至る過程に研究テーマがシフトされた。

「当時、そのテーマは歴史研究というより現状分析に近く、果たしてそんな昨日今日のことが研究できるのか不安な面もありました。それでも研究を続けるうちに10数年が経過し、当事者の回想録が出たり当時の非公開資科が公開されるなど、だんだんと歴史として分析できるようになってきました」

その10数年の研究で見えてきたものについては次のように語ってくれた。

「多くの人が『変わらない』と思っているうちは何も変わりませんが、いったん皆が『変わるんじゃないか』と思いだすと、急激に弾みがついて大変動が起きるものだということがひとつですね。それはよいのですが、もうひとつ感じるのは、大きな運動が盛り上がるとどうしても感情に流されやすくなり、早い段階で冷静な判断をしていたような人が押し流されてしまうということもあります。ふだんだと『急進的な革命派は非現実的で、穏健な改良派が現実的だ』というのが常識ですが、ロシア革命のときとかソ連解体といった大衆運動の高揚時には、感情に流される面が強まるために過激な革命主義が勝ち誇るということになりやすいのです。しかし、このごろは当時の熱狂がさめ、再び冷静な議論が必要になってきている時期でしょうね」

多岐にわたる研究テーマと意義

本来は農学部キャンパスである東大弥生キャンパス全景
本来は農学部キャンパスである東大弥生キャンパス全景

また塩川先生の研究テーマには、「揮毫“現存した社会主義”の社会科学」とか「社会科学の方法論・原理論」などといったやや抽象的で難しそうなものもある。どうして、そんな領域にまで手を広げたのか聞いてみた。

「ソ連解体のような大転換の時期には、ものごとを根本から考え直さなくてはならなくなります。つまり、国家や法律・市場・民族とは何かといった原理的な問いが次々と浮上してくるのです。これらは普段でしたら浮き世離れした問いに見えますが、こういう時期には、浮世離れしているどころか切実な現実的問題になるのですね。そういう意味で、具体的な歴史の研究と平行して理論的考察も重要になってきたのです。そして、こういう特異な事例をもとに考えていく中から、理論に対しても何かしら大きな問題提起が可能になるんじゃないかという期待をもっています」

現在では、歴史研究のかたわら、ソ連解体後に発足した15の共和国それぞれの政治過程を広い国際政治の動向ともからめて追っている。さらには、より広く「民族・エスニシティー・アイデンティティーの一般論」、あるいは「ジェンダーの政治学」などといった問題などにも関心をもっているという。研究テーマはこのように広大で野心的だが、それらについて語る先生の口調は非常に謙虚で穏やかである。それはそのまま人柄も表しているようで、信頼の厚い人柄がうかがえる。

学生と大学院生がともに討論するゼミ

塩川先生は東京大学大学院の法学政治学研究科の所属で、学部では法学部の政治専攻で教える先生ということになる。

「東大法学部といえば法学専攻の学生が圧倒的に多くて、政治専攻はほんのひと握りですが、大学院生になるとだいぶ比率が違って、政治専攻が3分の1くらいになります。東大は教員スタッフが充実していますので、政治専攻だけで約20人もの教員がいます。そのため非常にバラエティーに富んだ教育を受けられるわけで、学生には大きなメリットになりますね」

その政治専攻のゼミ演習は3年次の学生からが対象になる。塩川先生が主宰するゼミはいくつかの実験を盛り込んだ新しいスタイルのゼミをめざしている。そのひとつが3・4年次の学部学生と大学院生とが合同した合併ゼミで開かれていることだ。さらに内容のほうもユニークだという。

「年度によっていろいろとスタイルを変えているのですが、ある時期から、難解な文献を原書で読むという古典的なスタイルにこだわるのを止めました。たとえばある年のゼミでは、日本語で書かれた比較的やさしい新書版のテキストを取り上げてみました。その趣旨は、読むことだけで精力を使い果たしてしまうのではなく、むしろ読んだ後に自分で考え、テキストを批判的に論評し、討論することに重点をおくということです。通常のゼミと違ったスタイルなので戸惑った学生もいましたが、非常に活発な意見が出され、わたし自身にとっても刺激的な経験でした」

ゼミで討議されるテーマは毎年度塩川先生から出される。04年度のテーマは「民族浄化」と「人道的介入」だった。

「04年度のテーマは、コソヴォ問題とセルビア空爆を例にして、“民族浄化”とよばれる大量の人権侵害に対し他国が“人道的理由”から軍事介入することをどう考えるのかという問題でした。大学のゼミでの討論ですから結論を出すものではありませんが、みんなの発言は活発でした。わたしの役目は議論が広がり過ぎないようにすることと、大学院生だけに発言が片寄らないように学部学生の意見も引き出してやることくらいでした」

と塩川先生は笑う。

非常に謙虚で穏やかな人柄だが、ゼミの内容はみるからにアグレッシブで、学生はずいぶん鍛えられることになりそうだ。学生たちへの指導方針については次のように語る。

「歴史を学ぶ時あれこれの事実経過だけを覚えるのではなく、どのような“事実”についても複数の見方があり、それらの見方のあいだで論争があるということを知ることが大切です。ひとつの見方を鵜呑みにするのではなく、複数の見方を知ったうえで、自分の頭で考えなくては理解は進みません。インターネットの発達で情報の入手は非常に便利になりましたが、逆に、大量の情報から信頼性の高いものとそうでないものを選り分ける目を養うことが必要です。そうでないと、情報洪水に溺れてしまうことになりかねません。学生たちにはそのことをよく言ってます」

さらに、塩川先生はこう続けて話を締めくくった。

「これは学生に限らず日本人全般にいえることですが、旧ソ連や東欧諸国についての関心があまりにも低すぎると思いますね。この地域は面積・人口とも巨大であるだけでなく、その内部に多様な文明圏を包括していて、非常に独自な世界をなしています。ある一部分はEUに加盟することになりましたし、ある部分は中東イスラム世界と接して国際的紛争地帯の中心になっており、また、ある部分は東アジアまで延びて日本に隣接しています。これだけの大きな地域を視野の外においていたのでは、的確な世界認識などあり得ません」

「また社会主義思想というものは、善かれあしかれ20世紀の多くの人々の運命を左右し、日本にも大きな影響を及ぼしました。そうしたことは今の若い人たちには理解しにくいことでしょうが、歴史としては厳然たる事実です。かつての幻想を復活させるという意味ではなくて、歴史としてきちんと見直しておく必要があると思います」

こんな生徒に来てほしい

高校までの学習が暗記中心になるのは仕方のない面もありますが、大学の教師が期待しているのは、暗記で点数を稼ぐのに長けている人ではありません。“事実 ”といわれるものにもいろいろな見方があることを知り、自分で考える力を身につけている人を期待しています。そのためには、ちょっと難しい本を読んだりして背伸びをしてみることもたまには必要ではないでしょうか。

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