最初に解く志望理由書への誤解
筆者が10年以上にわたり何度も何度も何度も何度も……質問され、何度も何度も何度も……答えてきた最も多い不満、ないしは不安を最初に紹介しておく。もうこの質問はしないで下さい! といいたいほど万人が時代を超えて? 抱く定番である。
誤解1 負担が大きい
この連載の1回目で紹介した、レッドカード「①内容的に途中で終わる」に、ある時間の感覚をつかんでいないから発生する誤解である。何日に1回の割合で書き直せばいいかを最初から算出しておけば、大したことはない。要するに、「だからギリギリになって慌てる」へ陥るから、猛烈な負担を感じるのだ。ただそれだけ。
だいたい「大きい」かどうかは主観的な問題に過ぎない。目指す大学があこがれの志望校であるならば、「負担が大きい」のはむしろ当然である。
そもそも論を述べよう。あこがれの志望校とは、「あこがれている」「ぜひ進学したい」学校である。当然だ。さて「あこがれ」の対象は、大半がたった今の実力では届かない。言い換えれば、だからあこがれる。現在の力で及ばなければ、当然自らに負荷をかけて(=負担を与えて)伸ばしていくしかないわけで、負って当然の努力である。同時に「その負担に耐えられる自分」を信じるから、志望校を志望できる。「負担に耐えられそうにないけど志望校には合格するかも」などという話はこの世に存在しない。少なくともそう考えるべきではない。
この負担がAO・推薦特有と根拠なく訴える人までいるから、世の中広いと嘆息せざるを得ない。あこがれの志望校合格のため自らに負荷をかけて伸ばしていく過程を負担と呼ぶならば、一般選抜でもその負担は同じように存在する。別に一般と比べて大きいわけではないのだ。
というと今度は
「負担の大きいAO・推薦と負担が大きい一般選抜を両立させるのは負担が大きい」
との、いわゆる「両立」問題を持ち出す方がいる……というかこれまた目立って多い。おいおい勘弁してくれよと悲しくなる。
「両立」悲観論者の論法はおおむね
「AO・推薦の合格は保証がない。もし落ちたら一般の勉強の遅れが命取りになる」
である。うち「保証」云々は「誤解2」で説明する。そこを抜きにしても、単に一般の勉強が「命取りになる」ほど「遅れ」なければいいだけだ。「その負担に耐えられる自分」を信じるならば、AO・推薦の準備をしながら一般の勉強も進める程度の能力もまた自分にあると信じればいい。
このAO・推薦と一般選抜との「両立」問題とやら(そもそもそのような問題はないのだが)は、単に時期の問題に過ぎない。受験のシステムが逆で秋口までで一般選抜が終わり、来春がAO・推薦になったら必ず
「一般選抜の合格は保証がない。もし落ちたらAO・推薦の取り組み遅れが命取りになる」
と言い出すはずだ。だいたい「負担の大きいAO・推薦と負担が大きい一般選抜を両立させるのは、負担が大きすぎる」と嘆く向きは決定的なメリットを忘れている。それは
<合格するチャンスが増える>
である。これをメリットと思わない人はいまい。メリットがある以上は相応のリスクもある。メリットだけ受け取れるという都合のいい話もまた、人の世には存在しないのだ。
誤解2 保証がない
AO・推薦を始めようとしている人や、突入した方の胸に1度はよぎる不安。あこがれに向かって努力しているけれど、叶う「保証」はどこにもないではないかと。
その通り。保証はない。だから何だ。
先にも書いたことをもう一度述べる。それは
<一般選抜も合格の保証はない>
だ。あたかもAO・推薦にだけ保証がないように言い募るのは奇妙である。
百歩譲って、事実上保証は「ある」という現実も紹介できなくはない。現在はほぼ全入の時代なので、現在の学力で入れる大学・学部・学科は、選り好みしなければAO・推薦でも一般選抜でも1つぐらいはほぼ見つけられる時代だ。ところが筆者が面接して、その人がまず間違いなく現時点で入学できそうな大学を示すと、たいていは「行きたくない」と答える。理由はあこがれとかけ離れているから。でもあこがれは前述の通り、たった今の実力では届かないので努力が必要。努力すれば伸びるというのは希望的観測であって、保証はない。ということは
「一方で『保証」を求めながら、十中八九『保証」できる進路は嫌」
という不気味な精神構造といえよう。もっともこれが受験生の本音というのは理解できる。でも残念ながらそれは甘えの一種なのだ。
誤解3 なるべく楽に入りたい
「負担が大きい」と言い募る人がいる半面で、AO・推薦は楽だと軽くみている人もいるから世の中は複雑である。確かに試験形式が違うので向き不向きはある。でも、もとから性質の違う制度なので、片方が楽だとする絶対的基準はどこにもない。
- AO・推薦は楽で一般選抜は難しい ×
- AO・推薦は難しくて一般選抜は楽 ×
- AO・推薦と一般選抜は求められる能力が違う ○
である。違う性質の試験を同一直線上に並べても意味がない。「花崗(かこう)岩とリンゴのどちらがおいしいか」と質問しているようなものである。
ただし、1つだけハッキリ言えることがある。声を大にしていいたいポイントである。それは志望理由書のみならずAO・推薦を勝ち抜くには
<文章力をつけなければならない>
だ。一番簡単なのは小論文など文章を養う講座を受講する、である。会場試験に小論文がなくても文章の講座は受けておいた方がいい。面接も討論も、結局は文章力で培われる論理的思考法を発揮する場であるから。
ここも猛烈に誤解している人があまたいて、筆者は毎年頭を抱えている。誤解の最たるものは
「志望理由書だけの文章力があればいい」
だ。そりゃあ「あればいい」。でもないのだ。文章力あっての志望理由書で、志望理由書だけの文章力は存在しない。文章力が土台で、その上に高度な文章の一種である、志望理由書が存在する。文章力なき志望理由書など、砂地に堅固な家を建てようとする企みに等しい。
ただ誤解する気持ちがわからないわけではない。というのも、この「文章力」なる能力は砂時計のように目に見える形で徐々についていくケースはまれで、継続して努力を続けているうちに、おそらくはある日突然、ワンランク上の段階へ達する、ちょうど水の融解点に似た性質を持つからだ。マイナス15度からマイナス1度にまで高めても相変わらず氷のまま。そこであきらめてしまうと氷は氷。でももう一歩踏ん張って融解点に達した瞬間に水に変わるのである。
この「マイナス15度からマイナス1度」の間は、潜在的に能力は上がっているものの、目に見える形では表れない(氷のまま)のでいらつく。何度書いても伸びないとの錯覚に陥る。そこで講座を休みがちになる。すると温度は上がらない……の悪循環へ陥る。
散々述べてきて、読者の皆様には「飽きた」と思われる人もいようが繰り返す。文章力なき志望理由書はあり得ない。文章力は天才を除いて一挙には向上せず、日々の継続の結果として手にする技能である。その点は習い事や部活の練習とよく似ている。したがって文章力関係の講座を取ったら休まず出席して、その日すべきことを全力でなす。
実はその繰り返しこそ、最も「楽」な方法なのだ。土台を築いて家を建てた方が砂地に建てるより「楽」でしょう?









