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四谷校レポート

「国公立・早稲田小論文」に学ぶ『行為』としての学問




こんにちは、早稲田塾四谷校担任助手の高橋慧(ICU1年)です。

今日は、四谷校で開講されている「国公立・早稲田小論文」を取材しましたので、その紹介と魅力についてお伝えします。


私が取材した今回の授業では、リベラルアーツや教養、研究といった用語を踏まえ、大学とは何をする場所か、というテーマで講義が行われました。

まず話は「研究」とは何か。

先生によると、研究とは仮設をたてそれを実験、証明、史料、文献を用いて検証し、論文化することだそうです。

そしてその論文の整合性が他の研究者によって検証されると、それは法則(Law)になる。

そしてそのような複数の法則が体系化されたものが理論(Theory)になる。先生の講義の一部を簡単にまとめるとこのようになります。

このような講義を受ける中で、講義を聞いて新たに知った知識やそこから生まれた新たな問いが、自分の中に流れ込んでくるのを感じ、大学生である私自身も、塾生のみなさんと同じ学ぶ者であることを再認識しました。

私は現在、国際基督教大学(ICU)で学ぶ大学1年生です。

そんな私の具体的な問いとは、学問とは「天国」や「魔界」に似て、限られた特定の資格を要する「学問界」のような領域を指すのか(天国には死んだ人、魔界には魔神?悪魔?しか入れなさそうです)、それともそれは忍耐力と好奇心があれば誰にでも成すことができる特定の「行為」なのか、というものです。

この問いは、確かに自分が勉強が好きだし大学では学問をしようと思って受験をしたけれど、実際に教授と話していると彼らの発言や論文の内容、ジュディス・バトラーやイリガライ、フーコーが本を通じて語ることは難しくて、そう簡単にはついていけないという私自身の焦りや葛藤からきていると思います。

彼らとただ話がしたいだけなのに、知識がないと言葉を交わすこともできないのではないか、質問すらできないほどのこの難しさは彼らと私の知識の差によって生まれているのではないのか。

つまり学問とは知識ではないのか?私は大学に入ってこのような迷路に迷いこんでいたようです。

しかし今回授業の中で、先生は断言してくださいました。

学問とは行為であると。

STAP細胞の研究者が学問の世界から非難されたのは、その研究内容によるところではなく、自分で自分の実験後の検証を怠ったというその姿勢によるものだったそうです。

京都大学名誉教授の佐伯啓思氏は著書『学問の力』でこのように述べています。

「学問とは、さまざまな観察の結果でできた知識というより、そのような知識を抽出しようとする態度や関心そのものだからなのです。」

学問が特定の領域やそこに入るための資格、知識ではないとすれば、私は間違っていたかもしれません。

学問が態度だとするならば、それは決して簡単ではないけれど、自分は学問をできていないのではないかなどと思い悩むことなくすぐに実践に移すことができます。

常に自分が間違っているかもしれないと思いながら自分の言葉と自分を眺め、考え続ける忍耐力を持ってさえいれば、私たちは自らのことを「学問の行為者」と称することができるのです。

以上が「国公立・早稲田小論文」の授業を久しぶりに受講した私の学びです。

塾生時代も受講していたこの授業ですが、大学生になって改めて参加しても多くの学びがありました。

早稲田塾の授業は、ただ合格するための方法やテクニックを教えるものではなく、共に考え、共に気づき合い、大学入学後やその先にもつながるたくさんの学びで溢れています。

ぜひ皆さんも、この知的な学びに触れてみませんか?

ただいま早稲田塾では、新年度招待講習を実施中です。

今回ご紹介した「国公立・早稲田小論文」も無料で体験することができます!

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塾生と同じく学ぶ者として、私自身も、自分が学問をしていると自信を持って宣言できる一人の大学生であることを願います。

一緒に頑張りましょう。

 

カテゴリ:

    投稿者:担任助手 高橋慧

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