全校からのお知らせレポート

「高校生活でどんな経験をしたか」(活動実績)は 何を書くべきか、求められていることは何か 第3回は「価値をどうとらえるか」



こんにちは!

国際基督教大学教養学部アーツ・サイエンス学科2年生(神奈川総合高校出身)の

今中千夏と申します!

今回、全3つの記事を通して、総合型選抜においてよく問われる

「高校生活でどんな経験をしたか」について、どのように捉え、何を書けばいいのか

私なりの考えをお話しさせていただきます!



今回は、第3回の「価値とは何か」です。

前回、「自分」とはどういう存在なのかという一つの定義をしたので

それを元に自分という存在の価値について今回は考えます。


※この記事はあくまで担任助手今中千夏の

「総合型・学校推薦型選抜」へ対する見解を述べたものです。




1.自分の「価値」


第一部で、「自分」というのは

客観的な世界で確実なものではないが

その人の世界の中で「唯一無二」を見出すことはできると言いました。

では、そんな「自分」の価値はどのように決まるのか

見出すのかを第3回では考えていきます。


総合型選抜は、当たり前ですが選抜するものであり

そうである以上、そこには尺となる価値が存在します。


ここで一つ、また大きな壁にぶつかります。


主観的に見出した「自分」という存在に

誰がどのように価値をつけ、どのようにそれらを比べるかという問題です。


では、まず、どのように価値をつけるかについて。


「自分」という存在は主観的にしか定義されず

何者であるか、その自分にしか分からないのだとすれば

その価値(の内容)は、同じくその「自分」にしかわかりません。


つまり、その経験に対して、「自分」に対して

どんな風に「感動」できたかを知るのは自分しかいないので

価値の中身は客観的に決められないということです。


ただ、この価値というのは

自分で自分という存在を発見できていれば難しいことではありません。

人は何かを認識すると同時に、必ずといっていいほど解釈や評価をつけるからです。

そして、もっと決定的なのは

自分自身に唯一無二を見出す時、そこには「感動」があるということです。

「感動」するのはそこに価値があるからです。

あとは、どんな風に感動しているのか言葉にするだけです。


価値は、特に選抜される場面において価をされることから

「与えられるもの」というイメージが強いかもしれませんが

「価値」は自分で創るものです。 

自分の価値が自分で分かっていれば

明確な基準のない総合型選抜の見え方も大きく変わります。



2.「自分」達の価値はどう比べられるか


では、もう一つの、どのようにそれらの価値を比べるかについて。


今のところ、主観的な世界を出ていないので比べるというのは難しいように思えます。

実際、選抜の仕方は議論が分かれるところです。

ここまであえて触れてきませんでしたが

もちろん、大学やその学部が目指す方向性に合う人材であるか等の点も重要です。

これもしっかり、大学側が見出す価値と評価に入ります。


しかし注意したいのは

その人材が何者であるか見出せていないと

その大学や学部にあっているかもなにもないということ。

また、大学や学部のためだけに作り上げた「その人」は

「自分」という存在なら持っている過去というリアリティ、実体感に

欠けるということです。


これは素人が読んでもわかることです。

膨大な量の文章を読んでいる大学教授であればなおさらです。

まず、素直に自己分析して「自分」という存在を受け止め、それに感動する。

その上で、合う大学を探すなりその「自分」を軸に新たな経験を積んで

目指す大学に近づけていくという過程が必要です。


少し話がそれましたが、やはり

「その人自身しか知らない自分の価値」を客観的に評価して比べることは

避けられないと思います。


私は、これについて

価値の内容ではなく、その人にとってその人がどれだけ「唯一無二」か

その人がその人自身に対して抱いている「感動」の大きさで

比べているのではないかと考えています。


私のこの考えでは、

その価値の存在を自分しか知らないのに他人にも認知されるとはどういうことか

という問題を解決できてはいないと思います。


しかし、乱暴に話を進めますと

経験上、その人の「感動」から生まれた言葉を使えば

その人が語ることについて、どんな価値があるかはすべて伝わらなくても

価値の存在と度合いは伝わるということです。

これは、自分だけの言葉を使うということではなく

いつも使う言葉の表現であっても、他の人も使う言葉の表現であっても

「感動」そして価値の存在と度合いは、自分の中にあれば伝わります。


私がここで主張したいのは

価値の内容は、大学に合わせたり、価値あるものとは

一般的にこういうものだろうというような外部ものに縛られず

素直に感動したものにそのまま価値があるということです。

外部のものに惑わされていては純粋な感動を見つけるのが困難になります。


そして、ここからもう一つ主張したいことは

価値の内容について、選考する方々はすべて感じ取ることができなくとも

そこに確かになんかしらの価値があるということ

価値を見出した人にとってどのくらいの大きさの価値があるかは

やはり感じることができ、そこを比べているということです。

最終的には、周りのことや常識にとらわれず、ちゃんと自分自身と向き合うことができれば

この大学が行う価値比べ(選別)も制することができるでしょう。


これはあくまで私の意見ですが、その大学や学部に合う人材であることも必要です。

しかし、その言葉で客観的に説明できる人材は、誰でも当てはまる可能性があります。

実際、その総合型選抜では、事実だけを見ると

ほとんど同じ人材が集まってきている可能性もあります。

だから、最後の最後で「感動」に裏打ちされた「唯一無二」が

決め手になるのです。

自分の中でその経験、自分自身が

どれだけ唯一無二であるか、自分の深くにある核に近いか、

どれだけ唯一無二であろうと素直に努力できたか・・・

これは

自分の中にあるその他の無数の経験と比べて

特筆すべきその経験への「感動」はどれだけ大きいか

そこにどれだけの大きな差があるかであるかを見ているともいえます。

価値の度合いとはそういうことです。


  自己アピール等も含めて書く必要がある場合が多い活動実績ですが

上記を踏まえると

その経験がなぜ唯一無二の自分の説明として必要とされているのかの説明が

すでに自分の価値の説明になっていることがわかります。


  例として、私はダンス部の活動を実績の一つとして書いたとき

部員と協力したりした経験ではなく

そのダンスの作品がいかにメッセージ性の強いものであり

自分が今まで制作した作品の中で誇らしいものであったかを説明しました。

ほとんどの大学で、仲間との協調性はもとめられている人材としての価値です。

だから、部員と協力したことについて書くという判断もできました。

しかし、正直に言うと、筆者は部員と協力したことにそこまで感動していませんでした。

だから、自分の価値の説明として

作品をどのように作ったか、どれだけ感動したかを書きました。

アイコン

私の結論として、高校生活の中で力を入れたこと(活動実績)は

なぜその経験を唯一無二の自分の紹介として使うのか

掘り下げていくことで書くことができると考えています。

これはあくまで私の意見であり、かなり極端な意見になっているため

他にも考慮しなくてはいけないことはたくさんあります。

しかし、それは他で多くの参考書や塾がすでに教えてくれていると思うので

一つの新しい視点として役立ててもらえれば幸いです。






おまけ2

哲学者ニーチェの意見も聞いてみよう


最後に、「価値」について面白いことを言っている

哲学者ニーチェの言葉を添えておきます。


色々な解釈の仕方がありますが

筆者なりの解釈に基づいて

ここでニーチェの名言を使うのは大目に見てください。

理解するには、感覚が非常に重要だと思います。

筆者は上で長々と意見を言いましたが

説明を読むよりも、何か衝撃的なことに出会うことが

良い理解につながることがあります。

哲学者たちの言葉はその感覚を刺激してくれるような素敵な言葉で溢れています。

なんとなく感じ取って、新しい視点を得るきっかけになると幸いです。



生成が一つの大きな円環をなしているとすれば、

どんなものも等しく価値があり、

永遠的であり、必然的である...


肯定と否定、好きと嫌い、愛と憎悪、

といったすべての相互関係の中には、

ただある特定の生のパースペクティヴと利害関心が

示されているにすぎない。

それ自体としては、存在するすべてはこれで良いと語っている。

引用:永井均 『これがニーチェだ』 (講談社, 1998)


カテゴリ: