全校からのお知らせレポート

「高校生活でどんな経験をしたか」からはじめる総合型選抜の本質 第二回は「自分をどうとらえるか」





こんにちは!

国際基督教大学教養学部アーツ・サイエンス学科2年生(神奈川総合高校出身)の

今中千夏と申します!

今回、全3つの記事を通して、総合型選抜においてよく問われる

「高校生活でどんな経験をしたか」について

どのように捉え、何を書けばいいのか

私なりの考えをお話しさせていただきます!



前回に引き続き、「その経験に対して自分が見出した価値」を理解するために

今回は「自分」とはそもそも何であるかを考えていきます。

一見遠回りに思えるかもしれませんが

前提を問い直すことは根本から理解するために必要だと思います。


※この記事はあくまで

担任助手今中千夏の「総合型・学校推薦型選抜」へ対する見解を述べたものです。





1.「出来事」と「経験」


「自分」について考える前に

なぜ自分について考える必要があるのか納得できるように

「経験」について少し考えようと思います。



「出来事」ではなく「経験」という言葉を使うのはなぜでしょうか?



それは、「出来事」は起こったことに焦点が当てられているからといえます。

つまり、地球上に誰もいなくても「出来事」は起こるのに対し

「経験」はその「出来事」の中心になる「誰か」がいないと

成立しないからと考えられるということです。

総合型選抜においてその「誰か」は「自分」です。


「出来事」ではなく「経験」という言葉を使うということは

注目したいのは「起こったこと」よりも

あなた自身ということがわかります。



2.これまでの「自分」の捉え方


「自分」の重要性がわかったところで

「自分」について考えていきたいと思います。


みなさんは

「あなたは誰ですか?」と聞かれた時どう説明しますか?


よく身分証明で用いられるのは名前、住所、戸籍などです。

しかし、これは

「自分」についてのある条件下での説明、一部の要素の説明にはなっても

完全で本質的な説明になっているとは言えないかもしれません。

なぜなら、過去にも未来にも、

同姓同名で同じ住所に住む人が存在する可能性はあるからです。


ここから、「自分」というのは

客観的な事実の羅列(記号で変換可能な情報の集合体)ではないといえます。

客観的に「自分」という存在を確実なものにすることができないといえるのです。


「自分」というのは

唯一無二の自分であったり他人と言い換えられるときもあったりと

揺れ動いていて捉えどころがないと考えられるのです。



  しかし、ここで一つ大きな壁にぶつかります。



総合型選抜は

一般入試が受験者の学力を問うのに対し

志望理由から研究レポートまで、あらゆる角度から受験者を問い

どのような人物かを描いています。

それは、つまり

総合型選抜は「誰」を理由に選別する入試であるといえるということです。


そして、そうであるとするならば

一見、絶対性を見いだせない「自分」という存在に

大学は唯一無二を見出しているのではないでしょうか。

   絶対性も客観性もない世界で唯一無二を実現するというのは無理な話です。

しかし、大学はそこに唯一無二を見出している。

ここから、この矛盾を乗り越えるために

また別の視点から「自分」という存在を考える必要があることがわかります。




3.新しいの「自分」の捉え方


では、大学はどのような視点から

受験者を唯一無二の誰かであるとみているのでしょうか?


私は、その受験者自身が

自分」に対し「唯一無二」だと心から思えているかというところに

唯一無二を見出していると考えています。


例えば、大会の実績や役員の経験など

何か頑張った実績があるのは素晴らしいことです。

しかし、そのような実績はいくら希少価値が高くても

常に他の誰かが経験する可能性にさらされています。

「自分」を説明するための経験が他人を説明するための経験にもなり得た瞬間

唯一無二として自分を説明することができなくなってしまうのです。


自分という存在を説明するための経験は

ただの出来事、つまり、情報の集まりになる可能性を持っています。

自分という存在の揺らぎはこの揺らぎが元であるとも言えます。


だから、私たちは、

自分たちに起こったあらゆる「出来事」を自分の「経験」にするために

常に努力することで唯一無二を見出す必要があるのです。


大学は、この努力の先にある「唯一無二」を見ていると考えられます。



この努力というのは、自分の身に起こった出来事を、自分はどのように経験したか

つまり、どのように感じて、どのような解釈をしたかを

常に語ることができる状態にすることではないでしょうか。


語るといっても

その言葉に込められた感情一つ一つだって、言葉として他の人と共有できる以上

これも、常に他の人のものとして奪われる可能性にさらされています。

だから、奪われないためには、常にその経験に対して「感動」していなくてはなりません。

「感動」はあらゆる言葉を生み出す源泉といえます。

生きた言葉はちゃんとこの源泉につながっているので、簡単に奪われたりはしません。



よく総合型選抜では文章力、あるいはその中でも表現力が必要と言われていますが

表現力は表現するものがあってこそ発揮され、表現したいというエネルギーがないと稼働しません。

そのエネルギーも「感動」であるということです。

そして、「感動」において最も重要なのは「エネルギー(感動)」は目に見えるものではなく

動くことで初めて自分自身にも他人にも認識されるということです。


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まとめると

大学は絶対性のない「自分」という存在に唯一無二を見ていると言いましたが

それは、その自分自身がその経験に対し、「自分」に対し、「感動」できているか

つまり、「唯一無二」だと心から思えているかということであると思います。

これは、慢心や傲慢とは違います。

自信があることも重要ですが、「感動」には

対象に対する憧れや恐れといった感情が含まれています。

この点において、根拠のない自信とは違うのです。

このような「感動」は自分自身と向き合い続ける努力の先に見出せます。



かなり感覚的な話になってきたので

最後に実際に合格をした書類での例を紹介します。

筆者は、ダンス部に入っており、大会で入賞した実績がありましたが

総合型選抜でメインで語ったのは、哲学書を読んだ話でした。

ダンスでの経験のほうが希少価値が高そうに見えるし

実際、書店や図書館に行けば誰でも哲学書を読むという出来事を起こすことができます。

しかし、私にとって、哲学書を読んだという私の経験は

あらゆる経験の中でも最も大きな感動が湧きあがった経験でした。

他の人から見てありふれたことでも、私にとって唯一無二だったということです。

だから、私の説明・紹介として哲学書を読んだことを総合型選抜で使うことに決めました。





おまけ1

なぜ高校生活の中で力を入れたことを取り上げたのか


なぜ、総合型選抜についての記事で

わざわざ高校生活の中で力を入れたこと(活動実績)に注目したのか

それは、総合型選抜は、受験者の学力ではなく

受験者そのものを根拠に選別する入試であり

故に志望理由も学習計画も将来の目標も、自分だけのものでなくてはならず

そして、自分とは経験、過去の積み重ねから見出せるので

(ここは議論が分かれると思うが、総合型選抜では経験、過去に基づいて自分を説明するように求められること多い)

志望理由も学習計画も将来の目標も、活動実績が書けないと書けないと私自身が思ったからです。

書類作りに詰まった人は活動実績を振り返るといいかと思われます。

(もちろん、そのほかにも様々な要因で詰まることがあると思うので、悩んだらぜひ早稲田塾へご相談ください)



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